ベンチが語る「黒か白か」が支配する世界 ゆるしのない、息苦しい管理社会 

大谷洋樹の岩手からの風

 街のベンチを見ているとその街の人たちが見えてくることがあります。僕の住む街に年配の人が多い中心街があります。商店街は日中車が入れません。自転車は降りて通行します。所々に木製のベンチが置かれて、思い思いに休むシニアを見かけます。ほっと一息つけます。もちろん僕もその一人。

ベンチが映し出す日常生活

 すぐ近くのバス停前にもベンチがあります。ここも簡素過ぎるくらい簡素で、仕切りなどはありません。ですからバスを待つ高齢者らは譲り合って座ります。小さなベンチでたくさんは座れませんが、人数は決まっていませんから融通がききます。先客がいるのを見て躊躇する人に「ここ空いていますよ」と声をかけます。日常の光景です。隣合わせの見知らぬ者同士で会話が弾むことも。バスに乗り込むのもバス停に来た順番を基本に譲り合いです。

 商業施設や住宅で発展する市南部の新しい公園などは行かないのでどんなベンチかわかりませんが、僕が普段行く市街地や郊外は古いままのベンチでしょう。写真は朝のテレビ小説でロケ地となった橋のベンチです。昔ながらの風習が残るこの街でも詰めて譲り合う光景は珍しくなったかもしれません。

 東京に暮らしていた時、いつの頃からか駅ホームのベンチが変わったなと思いました。記憶があやしいですが、小さな椅子を手前に引いて下ろして、やっと尻を乗っけられるくらいのスペースに座ります。とてもごろっと横になれません。

「排除ベンチ」の存在を知る

 先日朝日新聞で「排除ベンチ」の記事を見ました。そうした言葉は知りませんでしたが、仕切りがあったり突起があって座りにくくしたり、といったベンチが増えたのは気になっていました。泥酔した人や浮浪者が居着かないようにしたり、1人のスペースをきちんと決めたりする「工夫」は認めつつも、ゆるさがない、管理されてきれいで、ゆるしのない、息苦しさを感じました。何よりかえって使いにくいベンチになっていないでしょうか。

 「0か1か」。当てはまらないもの、曖昧さを排除するデジタル社会を思います。選択肢がない、グレーのない世界。きっちり区別し、分ける世界。

 息苦しさを感じ始めたのはいつの頃でしょう。ひとつは地下鉄サリン事件(1995年)。駅からごみ箱が一斉に消えました。いまひとつは個人情報保護法の施行(2005年)。あらゆる所で本人確認が厳格になりました。個人情報の不正利用を防ぐ一方、本人の意思確認など、なじまない人たちへの対応、大災害など不測の事態への対応など大変な不都合や不便が生じています。杓子定規の対応にうんざりすることもままありました。もうひとつ加えるならWindows95の登場(1995年)を契機としたインターネットの普及です。 

切り捨てられる不都合は顧みられない 

「黒、白はっきりつける」。いろいろな分野で「いいこと」のために徹底した管理を追求する超管理社会に突き進むように感じます。ともすると管理からこぼれるものを切り捨て、切り捨てられた側の不都合は顧みられないのです。やさしさから遠く、ゆるしのない世界へ。考えてみたいと思います。

 

大谷 洋樹 ・・・プロフィール

日本経済新聞記者、生活トレンド誌編集などを経て盛岡支局長を最後に早期退職、盛岡市に暮らす。山と野良に出ながら自然と人の関係を取り戻すこと、地方の未来を考えながら現場を歩いている。著書に「山よよみがえれ」「山に生きる~受け継がれた食と農の記録」シリーズ

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