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ホンダとソニーとアップル

ホンダが消える 10 再びソニー、アップルとともに 編

 ホンダとソニー。戦後生まれの若い企業として注目を浴び、日本経済の高い成長力を信じさせてくれました。米国のアップルの創業者であるスティーブ・ジョブスさんは尊敬する企業としてソニーを挙げていました。ホンダ、ソニー、アップルは自動車、電機、コンピューターの可能性を切り拓いてきた20世紀のユニコーンと評して良いと思います。20世紀末、この3社は華やかなスターの座からどん底に落ちる苦悩を味わいました。そして21世紀へ。ソニーとアップルは再び輝きを取り戻しました。ホンダはまだ輝きが燻んだまま。なぜ、ソニー、アップルと肩を並べることができずに喘いでいるのでしょうか。ホンダはどこで迷路にはまってしまったのか。

 創業はホンダが1948年9月24日、ソニーが1946年5月7日です。ほぼ同時期のスタートと見て良いですね。創業者はホンダ(当時本田技研工業)が本田宗一郎と藤沢武夫、ソニー(当時東京通信工業)が井深大と盛田昭夫、日本の産業史に残る名前が並びます。それぞれの役割も本田、井深の両氏が技術開発、藤沢、盛田の両氏は営業・業総務と分かれています。ちなみにアップルを見ても、創業者はスティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックの二人のスティーブですが、やはりジョブスが経営全般、ウォズニアックが技術開発と分担していました。5、6年前にウォズニアックさんとお会いした時、「自分は技術開発に専念したかったので、ジョブスに経営全般を任せたんだ」と話していましたが、本田、井深の二人も同じ思いだったのではないでしょうか。

 自動車、電機、コンピューターは最先端の技術を競い、いかに画期的な製品に仕上げるかが成長のカギとなります。しかし、素晴らしい技術の開発に成功しても利益が出ない新製品を世に送り出してしまっては会社は存続できません。ユニコーンとして成長する企業は成功を重ねながらも、技術と事業化のはざまに潜む「死の谷」を乗り越えなければいけません。ホンダ、ソニー、アップルは自らの未来に向かって幾筋も分岐する目の前の道を選びます。

 どの道を選んだのか。企業ブランドの象徴でもあるカリスマの座に就いたのは、ホンダは本田宗一郎、ソニーは盛田昭夫、アップルはスティーブ・ジョブスでした。3社のうちホンダだけが技術開発者がカリスマとして君臨し、以後その系譜が続いています。藤沢さんが「社長は技術出身者が良い」との考えを示して以来守られているわけですが、ここが一つ目のターニングポイントだったのかもしれません。

 理想主義を掲げて技術開発に走る創業者と会社経営を支える収益を一瞬たりとも忘れない営業を担う創業者。創業者二人が衝突しないはずがありません。何度も繰り返えされます。火花が飛び散る喧嘩になったとしても、周囲は誰も止められません。

 その熱い思いのぶつかり合いを彷彿させる感動的な光景を見たことがあります。井深さんは1992年、電子技術分野での優れた業績が評価されて文化勲章を受賞しました。記者会見が開かれました。井深さんは足腰が弱っていたせいか車椅子で登場し、お話しする声もかぼそく、たいへん失礼ですがボソボソとしか聞こえません。会見は井深さんが言わんとすることを以心伝心でわかる秘書の方がすぐそばに立ち、口元に耳を近づけて聞き取り翻訳する形式で進みました。会見には盛田昭夫さんも隣に立ち、終始ニコニコしながら井深さんのお話に相槌を打ちます。

 井深さんは会見最後、盛田さんに感謝の言葉を述べました。多少口ごもりながらお礼を話しているのだなと推察しました。「盛田くんにはとても迷惑をかけた。大変な苦労だったと思う。ありがとう」。隣に立つ秘書が少し感情を込めて伝えました。途端、盛田さんから笑顔が消えて「くしゃ」と音が聞こえるかのように表情が崩れ、顔を下に向けます。私は浅はかにも型通りのお礼と勘違いしていたので、驚いてしまいした。盛田さんは創業から46年間に繰り広げられた二人の衝突、葛藤がフラッシュバックのようによみがえったのでしょうか。この一瞬の間、井深さんと盛田さんにしかわからない愛憎が行き交ったのかもしれません。二人は思わず抱き合うように近づきました。

 創業期から次世代に向けて歩む道をソニーは、ホンダと別の道を選択しました。井深、盛田の創業期を継承する形で、トランジスターの権威で盛田の義弟である岩間和夫氏が社長に就任した後、大賀典雄、出井伸之の2人が社長がソニーのブランドを担います。私がソニーを熱心に取材していた時期がちょうど大賀さん、出井さんの代でした。

 大賀さんはバリトン歌手の道を一度諦めてソニーへ誘われただけあって、ソニーの経営について話していても空を飛ぶような話題に終始し、不思議な思いに陥る経験を何度もしました。コンパクトディスク(CD)の開発に深く関わり、ミニディスク(MD)は仕様の設計から手掛けたと言われています。私は生意気にも大賀さんに「レコードを聴いて育ったので、MDはどうもねえ」と話したところ、大賀さんは「音楽スタジオで聴き比べてみよう」と言います。案の定、レコードの音質は豊かで、MDはさっぱりした印象を受けます。「音の情報量が違うからね。レコードの方がいろんな音が聞こえるでしょう。でも、使い勝手はMD。最初にレコードを聞かずに、MDでこの曲を最初から聞いたら違いには気づかないよ」と大賀さんは説明します。

 ソニーはウオークマンで音楽を携帯するライフスタイルを世界に広め、現在のiPhoneのスマートフォンにつながる世界を切り拓きました。もし大賀さんがレコードに固執しアナログからデジタルの世界へ踏み込む決断をしなければ、私たちの音楽生活はどうなっていたのでしょうか。一流の音楽家を自任していた大賀さんでしたが、自分が理想とする音楽世界に縛られずソニーの主要顧客である若者が音楽をどう楽しむかを予測して相次いで新製品を送り出したのはまさに音楽家としての慧眼でした。理想と会社経営を睨みながら技術の「死の谷」を渡ることに成功したのですから。

 出井さんの世代は電機メーカーからデジタルへ飛躍しようとします。キャッチフレーズは「デジタルドリーム・キッズ」。「井深さんはトランジスタ・キッズだった。盛田さんはウオークマン・キッズ。大賀さんはCDキッズ」と述べ、「われわれはデジタルドリーム・キッズにならなければならない」と言い切りました。日本政府が掲げた「IT基本戦略」の議長を務め、自らの決断でパソコンの「BIO」はじめゲーム、映画などのエンターテインメントを拡大。当時のマイクロソフトの経営モデルに代わる次のデジタル企業の模範を示す気概でした。スター経営者そのものでした。本人も陶酔していました。素顔の出井さんを知っていますから、「もっといつも通りの自然な出井さんの方が良いのに。少し無理しすぎじゃないの」と心配していましたが、結果はやはり、でした。

 落とし穴にはまりました。拡散する戦略がソニーが注力すべき事業を見失い事業拡大のための拡大に終始してしまいます。その後の安藤国威、中鉢良治、ハワード・ストリンガーの3社長は出井さんが描いた大きな風呂敷の絵をいかにたたむかに追われ、業績はどん底へ。2009年3月期から2015年3月期までの間、2013年3月期を除いて赤字経営が続き、2012年は4500億円超の大幅赤字に落ち込みました。

 2012年に就任した平井一夫社長も苦悩を続けましたが、2014年に吉田憲一郎さんが副社長兼CFOがサポートするようになって反転します。ソニーが息を吹き返したターニングポイントは吉田さんの登場と考えています。吉田さんは子会社の社長を務めてソニーグループの現場を熟知する一方、巧みな会計・財務の運用で事業整理、創出を実践してきました。復活の軸に据えたのはイメージセンサー。カメラなどのレンズに入った光を電気信号に変える「電子の眼」です。将来的には自動運転やロボットなどすべてのモノがインターネットにつながるIoT(インターネット・オブ・シングス)時代に不可欠な技術として大きな可能性を持っています。デジタルドリーム・キッズとして注力した電機製品でもなく、エンターテインメントでもないです。世界最高水準のセンサー技術の結晶が再び輝き始めたのです。

 1970年、当時の岩間和夫副社長(後にソニー社長)がCCD(電荷結合素子)の開発に着手しました。80年に世界で初めてCCDカラーカメラの製品化に成功。その後CMOSの開発にも成功し、今やソニーは世界市場の5割近いシェアを握っています。このイメージセンサーが稼ぎ出した収益で時間を稼ぎ、ソニーの事業体系を再構築しました。2018年3月期は、営業利益が前の期比2.5倍の7348億円。98年3月期年以来20年ぶりに最高益を更新しました。イメージセンサーを軸にした半導体事業の採算が上向き、業績改善をけん引。2021年3月期は1兆円を超える純利益を計上。時価総額も最高を更新しました。牽引してきたイメージセンサーが落ち込みましたが、ゲームと金融が利益を押し上げました。主力事業がそれぞれの好不調を補い合う好循環が生まれています

 ソニーがなぜ復活できたのか。日本を代表する企業ブランドが泥まみれになるまで追い込まれたにもかかわらず、息を吹き替えせたのは自分たちの強みは何かをどん底の中で再認識したことです。ソニーを取材している時、同席した部長と課長が取材中であることを忘れて「それじゃソニーじゃないんです」と議論を始めたことがあります。「ソニーらしさとは何か」を常に議論している現場に本当の強さを見た思いでした。敗北が続いた2000年代のソニーが世界のライバルとの競争で勝ち抜けるのは何か。CDでもない、カラーテレビでもない、パソコンでもない、スマートフォンでもない。過去の栄光をかなぐり捨て、イメージセンサーしかないと気づいた事実が復活への力となったのです。

 だいぶ遠回りしました。ホンダが過去最高の時価総額にまで息を吹き返したソニーを今も遠目で見るしかないのは何が違ったのでしょうか。多種多様な人材が入り乱れてホンダの企業文化を再構築、あるいは熟成する過程がなかったことが挙げられます。本田宗一郎を否定するまでは良かったのですが、「ホンダが世界に勝てる強みは何か」を社員で共有する経験がなされていません。自動車メーカーとしてビッグになることばかりを考え、本来の強み、言い換えればCVCCで世界を驚かせたエンジンの開発技術、そしてCVCCに代わる世界の耳目を集める新技術、もっと言えばモビリティの未来を創造することができなかったのではありませんか。ホンダはなぜ今まで存在し、これからも必要とされるのか。せっかくビジネスジェットで成功したのに・・・。当たり前のことかもしれませんが自動車メーカーが自動車を生産することだけを考えていたのです。たどり着く結論は、ホンダの常識の枠で足踏みを続けること。これがホンダの今の苦悩の根源にあります。

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