
ホンダが消える 6 ひとりぼっちの社長が袋小路に迷い込んだ時
ホンダ の実質的な社長だった藤沢武夫さんが1986年(昭和61年)、「経営に終わりはない」(文藝春秋)を上梓しました。あとがきで昔の自慢話を世に出すことは関係方面に迷惑をかけると考え、刊行を断念しようと考えたが、「たいまつの火が次から次へ受け継がれることによって、はじめて本田技研は万物流転のさだめを免れることができる」と考え直して世に送り出したと書いています。
このうち「近視的な見方はしたくない」の章の中で本田宗一郎さんとの最初の出会いについて書いています。
「金のことは任せる。(中略)けれども、何を創り出すかということについては一切掣肘を受けたくない、俺は技術屋なんだから」といったことが、非常に鮮明に記憶に残っています。(中略)私は答えました。「それじゃお金のほうは私が引き受けよう。(中略)いちばん仕事のしやすい方法を私が講じましょう。あなたは社長なんですから、私はあなたのいうことは守ります。ただし、近視的にものを見ないようにしましょう」「それはそうだ(後略)」
さらっと書いている藤沢さんですが、実際は独断専行する本田さんと膝をつきあわせて明け方の3時、4時まで考えをぶつけ合い、最後は本田さんの了解を得ずに独断専行して物事を進めたことがあるそうです。
本書で中国文学の権威の一人、吉川幸次郎さんの言葉を引用して経営の真髄とは何かを説明しています。
「経営の経の字はタテ糸だ」。布を織る時はタテ糸は動かずにずっと通っている。経営の営の字はさしずめヨコ糸。タテ糸がまっすぐに通っていて、初めてヨコ糸は自由自在に動く。「一本の太い筋が通っていて、しかも状況に応じて自在に動ける、これが『経営』であると思う」と書いています。藤沢さんは本田宗一郎さんと粘り強く話し合い、この結果として生まれてきたものが「本田技研のタテ糸になった」。
藤沢さんには残念ながらお会いする機会がありませんでした。幸いにも藤沢さんに仕えたというか教えを受けた方と親しくお話を機会が多くありました。お酒を飲みながらホンダの歴代経営者の話題にもなると、酔いも手伝ってか「ホンダは本田宗一郎が社長だと思われているが、実際の社長は藤沢さん。彼が居たからホンダはここまで生き延びたのだ」。そして「藤沢さんの薫陶を受けた人材が社長の暴走をチェックしていなかったら、つぶれていたかも」。
最晩年の本田宗一郎さんをホンダ本社一階でお見かけしたことがあります。1階には新車や話題の車が陳列されるショールームなどがあります。最初は誰か気付かなかったのですが、営業時間が終了しているにもかかわらず天井から放つ照明に照らされていたためか、オーラを放っているかのように輝く姿を見て、本田宗一郎さんだとわかったのです。営業時間を終えたフロアには誰もいません。私はたまたま取材の帰りに一階に降りてきたところでした。
本田さんはスタッフに体を支えられながら1台の車を眺め、目を凝らして舐めるようにチェックしています。「新車が出たら、必ず自分の目でチェックする」と聞いていましたが、ホンダらしい独創性はあるのか、新しい技術を搭載した新車の完成度は?自分の目でしっかりと見極めようとする鬼気迫る執念というかエネルギーを目撃することができました。
2代目の河島喜好さんはじめ歴代の社長は自己表現に違いがありますが、日本の自動車メーカーの中では頭抜けた個性の持ち主ばかりでした。久米昰志さん、川本信彦さん、吉野信行さんの代までは幸運にも取材する機会を何度も持ちました。皆さんのエピソードを書くとそれだけで一冊の書籍になりますが、それは次の機会に譲ります。
今回の連載の趣旨に立ち返って強調したいのは、河島、久米の両社長の時代までは藤沢武夫さんに勝るとも劣らないチェック役の副社長らがいたことです。これまで技術開発と成し遂げたい夢を考えて過ごしてきた社長が下す決断をそのまま「yes」と受け止めず、営業・経理・総務の観点から反論。その見直しを躊躇なく実行してきました。
開発vs営業などの権力抗争と分析する向きがありますが、社長一色に染まる経営陣を抱えた会社の末路はカルロス・ゴーンが支配した日産自動車を取り上げるまでもなく、多くの事例を思い浮かべる人が多いはずです。
しかし、4代目の川本信彦社長は聖域に手を入れます。あるいは、手を入れざるを得なかったというべきでしょうか。トヨタ、日産に続く3番手の地位を固め、欧米アジアの世界戦略も着実に広げていました。しかし、1990年に社長就任した年から日本国内のバブル経済が崩壊し始め、足元は大きく揺らぎ始めます。「ホンダらしさ」の話題性で新車を投入しても売れ行きは見えない天井にぶつかり、尻すぼみします。このままでは永遠にトヨタ、日産に続く自動車メーカーに過ぎません。
川本社長は苦しい胸の内を明かします。「ホンダはいつも舞台に上がってタコ踊りばかりしているわけにいかないんだ」。本田宗一郎のもとでエンジン開発などに全身全霊を捧げてきた川本さんです。その川本さんでさえ、これまで築いてきたホンダの栄光を否定しなければ、言い換えれば本田宗一郎を否定しなければ次の成長ステージに飛躍できないと決断したのです。
川本さんは「ワイガヤ」やF1の撤退など自身が大好きだったホンダらしさの象徴を自ら否定する経営・意識改革を断行します。そして互いに聖域として触れなかった開発と営業の両部門の指揮系統を一本化するなど、総合力で勝るトヨタに負けない経営に向かいます。
当時のトヨタはホンダをどう見ていたか。「ホンダがホンダを辞めてトヨタと同じ土俵に上がってくれるなら、こちらは歓迎だ。戦いやすくなるからね」。経営・意識の大改革を実践してもホンダ の窮状は続きます。
「近視的な見方はしたくない」。本田宗一郎、藤沢武夫の二人が決めた経営のたて糸が切れそうになったと思われた頃でした。川本さんの表情から本来のにこやかな笑いが消え、目つきは陰険になります。その独断専行ぶりから「ヒットラー」「ナポレオン」などと陰口で呼ばれ、批判されるのが嫌なこともあって記者らの取材機会を減らします。かつての藤沢さん的な役回りの副社長らが進言したとしても耳を貸しません。
川本さんは社長時代の頃を後日語ってくれたことがあります。ある日、社長室に本田宗一郎さんの影を感じたそうです。でも、何も言わずに去ってしまった。「きっと心配するな。自分が考えた通りにやってみろ、と言いに来たんだ」と自らを鼓舞したそうです。
川本社長本人が独断専行を演じているつもりでも、開発や営業の現場はそう受け止めていなかったと思います。良い例が「オデッセイ」のヒットです。川本社長は「アコード」こそホンダ が生み出した素晴らしいクルマと惚れ込んでいましたが、アコードの売れ行きはさっぱり。上級乗用車「インスパイア」を投入した時もアコードを上回る人気を集めると「インスパイヤはショートケーキの一部を食べるような感じで開発したのに・・・」と市場の変化に首を傾げていました。
そんな川本さんを尻目?に、開発現場は費用を制約する目的もあってアコードのシャシーを活用してオデッセイを世に送り出しました。苦し紛れで開発した新車は予想を上回る大ヒットとなり、日本国内のミニバンブームの火付け役となりました。それでも川本さんは自分が予想できなかったヒットに対する照れ隠しもあって、「温泉カー」と呼び、ホンダが目指すクルマと違うと悔しがっていました。
ホンダ の強さは経営トップがどう叫ぼうが開発・営業の現場が自ら信じる目標に向かい、しっかりと結果を上げてきた歴史の積み重ねにあります。藤沢武夫さんが全社員に本田宗一郎さんから湧き出る独創的なアイデアと勇気を尊敬し、活用しろと繰り返し連呼していましたが、それは社長の言いなりになれという意味ではありません。
副社長以下の人間かいかに経営や成果に反映するかを考えろ、ということを示唆していたはずです。川本社長時代は「宗一郎以後のホンダ」を模索したのですが、結局は強さの源である「ホンダらしさ」が「未来のホンダ」に向けて軌道修正を繰り返しながら「継承するもの」「捨てるもの」を取捨選択したのです。
しかし、歴代社長の独断専行は加速します。今流行している言葉を借りれば「ぼっち社長」の登場です。世界の自動車産業の生き残りがますます厳しさを増していました。ホンダが唯一無二の存在であり続けることは不可能です。米GMなどと提携しますが、世界のホンダになる夢は捨てられません。
「誰も気づいていないが、このままではホンダは消える」という危機感を前に、社長は複雑な方程式を前に一人ぼっちで考え、決断するしかなかったのかもしれせん。社長はもともと孤独です。ですが経営と現場の距離はさらに遠のき、開発や営業で起こっている窮状が社長に届かない、あるいは届けない経営幹部が増えます。社長ひとりがたき火の炎を見ながら、消えかかっている赤い輝きをホンダ の未来と勘違いしてしまったら、社員はたまりません。
その頂点は7代目の伊東孝紳社長の時でしょうか。2009年6月の社長就任後、「早く、安く、低炭素でお届けする」「2016年度に世界販売台数600万台」と掲げた目標が最後の砦ともいえた開発現場を混乱に陥れ、歯止めが止まらなくなりました。当時、ホンダ経営のコンサルティングを担当していた会社スタッフが打ち明けてくれました。「もう上司に進言しても何も通らないと、現場が嘆く声ばかり」。伊東社長時代は「フィット」リコールなどの品質問題が続き、新車販売計画が凍結になるなど経営の足腰とブランドはガタガタになりました。
伊東社長は2015年2月、突然に退任を発表します。本人は続投するとの見方があっただけに社長交代は意外な印象を持たれました。その背景には二人のOBが進言したとの憶測が飛び交いました。一人は川本元社長、もう一人は雨宮高一元副社長。雨宮さんは米販売法人アメリカン・ホンダ・モーター社長を務め、ホンダの利益の大半を稼ぎ出した米国事業を取り仕切ってきました。
1980年代からホンダの本社は実は米国で、米ドル円の為替対策も米事業を睨んで実行するといわれていました。雨宮さんが東京本社の社長になるとの噂も浮かんで消えていたものです。川本さんの後任である吉野浩行元社長も進言したとの話もありました。川本、雨宮、吉野の3氏はいずれもとても恐れられた方々です。それだけ伊東さんは突っ走っていたのでしょうね。
2021年4月に就任した三部敏弘社長は電動化とカーボンゼロ の大きな変革の波が待ち迎えています。「100年に一度」といわれるイノベーションのビッグウェーブです。21世紀を体感し、未来のクルマを予見したかったであろう本田宗一郎さんと藤沢武夫さんが唸るホンダが創造されるはずと期待しています。