
ホンダが消える 8 HONDAと本田 米国と日本のはざまで失ったもの
1980年代後半、米国オハイオ州にあるホンダの自動車工場を訪れました。米国の生産会社の社長は入交昭一郎さんです。1963年に本田技研工業に入社し、後に社長に就任した川本信彦さんや吉野浩行さんと同期で、当時は将来の社長候補筆頭と目されていました。東大工学部の頃は航空機エンジンの開発を夢見ていましたが、敗戦で途絶えた航空機開発の窮状を見て自動車メーカーを選びました。レース用のエンジン開発部門が長く、F1(フォーミューラーワン)や厳しい排ガス規制をクリアしホンダの名を高めたCVCCエンジンの開発にも携わりました。1979年に39歳で取締役に就任。最近流行のビジネス用語を使えば戦後生まれのユニコーンであるソニー、ホンダを象徴する若き経営者像を体現していました。
スター性は十分で米国の人気は日本よりも高かったと思います。ホンダの経営哲学を明快に説く一方、米国従業員と気さくに話し、時にはF1の運転席に座って工場内をぶっ飛ばすパフォーマンスもこなします。実際、米国の自動車専門誌でビッグスリーの経営者らと共にオールスター経営者に選ばれ、オハイオ工場はじめジャーナリストらに「入交教」と呼ばれるほどの熱狂的なファンがいました。
スター・入交さんの存在は、米国の日系企業が直面していた光と影を浮き彫りにしていました。米国に進出したものの、日本から来た経営幹部は英語を流暢に話せず、しかも米国人が好きなジョークを交えながらスピーチするのが不得意。とりわけ日本の工場はTQC(全社的品質管理)を基に、作業の隅々まで決まったマニュアルと規律で構築された日本式生産方式の徹底を求めるので、生真面目に英語で説明されても現地従業員への理解と徹底は中途半端になりがち。進出当初の思惑に反して、操業度の維持と品質管理に苦しむ日系企業は少なくなかったのです。
ホンダのオハイオ工場は違いました。1979年に二輪車の工場を操業し、1982年には日本の自動車メーカーとして初めて四輪車の米国現生産を開始しました。これまでの失敗を糧に作業マニュアルは写真説明を多用して英語を使わなくてもコツがわかるように仕上げます。そこに入交社長が登場します。「ミスター・イリ(時にはイリサン)が言うならわかったよ」。米国人が持つ「日本企業の常識」を入交さんは覆し、ホンダをトヨタ自動車や日産自動車を上回る人気ブランドに押し上げたのでした。
しかし、その輝きは、ホンダが生き残るためには欠かせないものだったのです。当時、ホンダが生産する自動車の4割は北米市場で販売されていました。オートバイは世界一のブランド力を誇っているうえ、家庭用農業機械も北米など海外で人気が高く、芝刈り機などは性能の良さから「農業機械のベンツ」と呼ばれていました。ドル円の為替相場に左右されるリスクはありますが、そのリスクを逆手に取り北米事業をホンダ全体の収益を支える大黒柱に育てました。「ホンダの経営戦略は北米を最優先に考えられており、実際の本社は東京ではなく既にアメリカに移っている」とウォール街では言われていたものでした。
米国ホンダの底力を物語るのが「アキュラ」の存在でした。1986年に「ホンダ」に続く第二ブランドとして誕生しました。「ホンダ」は小型車・大衆車として人気と評価を集め、ブランドとしても定着してきましたが、アメリカ・カナダの富裕層を狙うためには新たな高級ブランドを設定する必要がありました。アキュラ・ブランドは最高級車「レジェンド」やスポーティーセダンを新たに扱い、販売店も外観やインテリア、そしてお客へのサービスなど全てを「ホンダ」を凌ぐ富裕層に向けてに仕立て上げました。すぐにブランド別の顧客満足度調査で第一位を獲得し、日本車の高級ブランドの先駆けとして成功を収めたのです。1989年にトヨタ自動車「レクサス」や日産自動車「インフィニティ」はアキュラを追撃する形でスタートしましたが、上級車の販売に関してては日本と米国が逆転する構図でした。2005年に日本や中国でもアキュラブランドを投入する計画を発表しましたが、日本は国内市場の低迷などを理由に結局見送られました。
景気や国内市場の低迷など止むを得ない経営環境があったとはいえ、日本国内のアキュラ見送りは、ホンダ混迷を予見する兆しだったように思えます。日本国内で「アキュラ」ブランドを投入できなかった背景にはトヨタや日産にはないホンダ特有の販売網と新車開発の見誤りにありました。ホンダはオートバイなど二輪車から事業がスタートしたこともあって、二輪車や軽自動車などを扱う業販店と呼ばれる小規模な店舗を抱えていました。主力の販売網はプリモ、クリオ、ベルノの3系列で構成していましたが、トヨタや日産に比べクルマの話題性に頼って販売する印象です。2006年には「ホンダカーズ」に統一し、全車種への販売に移行し、販売網の底上げを目指しましたが、軽自動車や小型車が大半を占める従来の殻を破ることができず、アキュラが目指す富裕層の顧客開拓に失敗します。
新車開発体制でも加速に向けたギアの入れ違いが起こります。オデッセイで成功した「ミニバン」市場を事実上リードしたにもかかわらず、その後に拡大したワンボックスカーやSUVの人気に乗り遅れてしまいます。日本国内は売れ行きを確保するために軽自動車や小型車に集中する構図を変えることができません。
米国はアキュラの成功に自信を持ちすぎたせいか足踏みが続きます。米国市場ではSUVが急成長し、これに合わせて大型SUVを投入しますがセダン中心の新車開発から脱することができず、アキュラブランドの輝きは失せます。2年前、ロサンゼルスなどカリフォルニア州を走る車を見て驚いたのは、アキュラブランドを運転する層の変化です。レクサスなどに負けない優良な顧客層を抱えていたのですが、韓国のヒュンダイに顧客を奪われているようでした。以前だったらピカピカに輝いていたアキュラブランドのボディーが汚れたまま走っているのを見た時は「残念!」の一言でした。
1980年代以降のホンダの成長は日本の本田技研と米国のHONDAを両天秤にかけ、強いところをうまく引き出して成功を収めてきました。最近のホンダ、アキュラ両ブランドの輝きが失せた背景には日米間の経営意思決定の乖離、新車開発の揺らぎにあると思えてなりません。言い換えれば長期的な世界戦略の欠如です。米国と日本を含めて世界の市場を動向を睨んで開発すると宣言しても、実際は目先の市場の売り上げに囚われて新車を開発。世界戦略車とか世界6極体制とか色々な新車開発の組織改革が実行されましたが、結果はブランドの短命化を招いただけ。NSXやG660など大きな話題を集める素晴らしいクルマを輩出しているにもかかわらず、売れ行きは尻すぼみに追い込まれる。話題先行型の新車開発が悪循環を招き、現在の迷走を招いています。
むしろ別の会社のブランドかと見紛うほど一体感を失い、本社の屋台骨は右へ左へと揺れ動き、ホンダの四輪車事業を儲からないようになってしまったのです。2000年以降は日本と米国、そこに中国が加わったパワーバランスの揺れに右往左往し続けているホンダが私たちの目の前にいるのです。
ホンダの米国事業が強すぎた所以なのでしょう。「ぼっち社長」編でも触れました米国ホンダのトップが東京本社の社長よりも偉いと周囲が意識した時期があったのも事実です。米国で強いブランドを維持するためにはカリスマ的なスターの存在感が重要性ですが、そのスターの輝きは東京本社と競い合ってこそ生まれるのです。
2021年4月に就任した三部敏弘氏社長は世界でさまようHONDAブランドを念頭に新車のEV(電気自動車)構想を発表したと察します。低迷の実像は見えてきました。かつての入交さんのような個人のカリスマ性で輝きが戻るわけがありません。HONDAも本田もホンダも捨てるぐらいの覚悟が必要です。八郷隆弘前社長は3年前に東洋経済誌のインタビューで「ホンダにしかできないエッジの立たせ方をしないと、ホンダはいなくなる」と語っています。それから3年も経過しましたが、処方箋は次の社長へ託されてしまっています。本当に消えてしまうのかな?