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ホンダF1の記念メダル

ホンダが消える 9 F1の遺伝子はどこへ あの熱狂に代わるものは

 ホンダのフォーミュラーワン(F1)との付き合いは長いです。1967年にジョン・サーティースがジャック・ブラバムを僅差で抑えて優勝した時は少年マガジンの代わりにカーマガジンを買い、サーティースとホンダのF1マシンが並んだ写真を切り取って部屋に貼って喜んでいましたから。もう54年前のことです。

田宮模型のF1を徹夜で組み立てる

 それ以前からジム・クラーク、ジャッキー・スチュアート、ジャック・ブラバムらが憧れのドライバーです。彼らが乗りこなす英国というかBRMの濃緑色のF1マシンが一番速いと信じ込んでいましたから、ホンダが抜いて一番先頭に立つなんて。うれしさのあまり、とても高価でしたが年末に親に頼み込んで田宮模型が製作した20分の1スケールのホンダF1を買ってもらいました。徹夜で組み立てたのは良いのですが、翌朝足と膝が痺れて立てなかったのをよく覚えています。

 欧米のクルマが遠い向こうで輝いて映り、21年後の1988年にホンダマシンが16戦15勝するなんて夢にも思わない時代です。先日も1966年に公開された映画「グラン・プリ」を見ながら、この頃のF1マシンがシンプルで一番美しいなあとセンチメンタルな思いに浸っていました。

 ホンダのF1の歴史を見ると、1964年にF1に参戦し、サーティースの優勝などの実績を上げながらも1968年に活動を休止。1983年からエンジン供給の形で再び参戦し、ウィリアムズと組んで1984年から本格参戦へ移行して、1986、87年にコンストラクターズチャンピオンを2年連続で獲得、1988年からマクラーレンにパートナーを替えて1988年に16戦15勝という常勝ホンダを達成しました。

 ホンダの活躍があってこそだと思いますが、1977年以来10年ぶりにF1日本グラプリが1987年、復活します。当時自動車産業を主力に取材していた私は、誠に幸運にもホンダや鈴鹿サーキットを取材する機会を得ました。仕事をしたフリをしながら好きなF1に関連した人物や技術を取材して記事にできるのですから、それはそれは楽しい日々を過ごすことができました。

幸運にもホンダF1の取材が仕事に

 1986年だったと思います。ホンダがF1エンジンをウィリアムズ、ロータスの2チームに供給することを決めたイベントと記憶しています。ドライバーはウィリアムズがアラン・プロストとナイジェル・マンセル、ロータスがアイルトン・セナと中嶋悟が選ばれていました。

 一連のイベントが進行した後、本田宗一郎さんがスタッフに肩を抱かれるように支えながら登場してきました。向かう先にはアイルトン・セナらが待っています。体調が思わしくないと聞いていたので本田さんは顔出さないのかなと思い込んでいましたから、驚きました。

 さすがです。本田宗一郎さんが登場すると、セナらドライバーの表情が輝きます。ホンダエンジンの供給先としてウィリアムズがロータスよりも優位ですから、ロータスのドライバーであるセナはまだまだ売り出し中のスターでした。しかし、本田さんはセナに近づき、声をかけます。セナはうれしそうにクチャと音がするような笑い顔を見せます。セナの実力と将来性は聞いていました。卓越した運転技術を持っているものの、前に出ようとする気持ちが強すぎてクラッシュしがちと言われていました。

 それなのに本田さんが声をかけるとは・・・。私は人混みを分け入り分け入り、「ガンバッテクダサイ」と声をかけてセナと握手することができました。握手の思い出は私の財産です。

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