
ホンダが消える25 「 俺の車」は「みんなの車」ダイハツに負けるかも
東京・銀座を歩くと、「俺の」を冠した飲食店やパン店を目にします。名称のインパクトもさることながら、高級食材が割安に食べられるというので人気を集めました。最近は目が馴染んだせいか「俺の」を見かけても心が動きません。ブランドの力とは「誰が何を言おうと自分が一番」と胸を張ることです。「俺の」を考案した創業者のセンスには脱帽しますが、どこにでも「俺の」があるなら、そのインパクトは薄れ「みんなのフレンチ」に転じてしまいます。
強烈な個性もどこにでもあれば普通に
「俺の」が「ホンダ」と二重写しに見える時があります。ホンダの真骨頂は技術者が自ら乗りたい車を開発して生産し、世間を驚かせること。「ほら、どうだ!」と声が聞こえてくるのです。その「ホンダの車」のおもしろさを共有したい人は躊躇なく購入。車内の雰囲気、燃費など他メーカーと一応は比較しますが、決定力は「ホンダ」を持つ喜びに尽きます。
「じゃじゃ馬をどう乗りこなすかが車の醍醐味」。1980年代、ホンダが世界にどんどん飛び出しているころ、開発担当役員がよく口にしていたのを覚えています。ホンダの新車は運転して楽しい。エンジン、操縦性能が一体になって自分自身が走り出す快走感に酔います。本来ならマニュアル・シフトを使い回し、アクセル、ブレーキをこまめに操作して車の性能を最大限に引き出す楽しさと続けたいのですが、さすがにオートマチック・シフトがほとんどの今、手動を楽しむのはかなり少数派です。ただ、クルマから得るエンターテインメントの本質は変わりません。マツダの「ロードスター」が今でも高い人気を守っているのが肯けます。
ホンダがトヨタ自動車や日産自動車を追い上げ、世界に躍り出る時期なら、「俺のホンダ」はその異彩とともに輝いていました。レストランに例えれば、和洋中いずれも「ホンダ」ならではの味付けに飛びつくお客さんが増え、お店の前に長い列が続きます。
しかし、世界の自動車メーカーと肩を並べた時、どうでしょうか。1990年代、ホンダが経営不振に喘いだ時。新車は不発が続きます。ホンダもトヨタも同じに見え始めます。その窮地から抜け出す救世主となったのが「オデッセイ」でした。今ではセダンが駆逐され、ワンボックスタイプのSUVが全盛期ですが、1990年代はまだ物珍しいミニバン・タイプです。
オデッセイは「みんなの」車
意外にも、当時の川本信彦社長は、思わぬ大ヒットをかっ飛ばした「オデッセイ」を酷評します。「こんなの温泉カーだ」。
無理もありません。オデッセイのシャーシーは主力乗用車「アコード」を利用しています。本来ならワンボックスタイプのシャシーをゼロから開発するのが筋。それには時間とお金がかかります。開発陣は目の前にある素材を使って、お金と時間をかけずにお客が求めるミニバンを捻り出し、苦境に喘ぐ会社を救ったのです。にもかかわらず、社長は公然と言い放ち、不満を隠しません。
川本さんは本田宗一郎さんととともF1(フォーミュラーワン)に挑んだ人です。社長時代、最も愛した車は「アコード」でした。エンジン、シャーシーなど走行性能を磨き上げ、世界トップクラスの中小型セダンと自負します。そのアコードと比べたら、オデッセイは走る醍醐味が見当たらない。ただ、後部座席に乗る家族は気持ちよく過ごせる車です。まるで温泉に入ってのんびりするかのような車と映ったのでしょう。
川本さんにとってアコードは「俺のホンダ」であって、オデッセイは「みんなの車」でした。2000年代に入っても、ホンダは「俺の」呪縛から抜け出せていません。それが4輪車事業でヒットが続かず上昇気流に乗れないまま、今を迎えています。
日本の自動車市場はセダンが衰退し、軽やワンボックスカーが全盛を極めています。需要は明らかに「俺の」から「みんなの」に移っています。今後の電気自動車の普及を考慮すれば、「みんなの車」が加速するのは間違いありません。
その追い風を背に受けるのはどの自動車メーカーか。ダイハツ工業が抜け出すのではないでしょうか。ここ数年、発表する新車は価格、デザイン、走行性能いずれを見ても他社との差別化に成功し、存在感が高まっています。強烈な個性を発揮するわけではありませんが、いつも話題の中心にいたスズキを抜き去ってしまっています。「タフト」「ロッキー」など最近のダイハツのクルマには地味ながらもオーラを感じます。