• ZERO management
  • カーボンニュートラルをZEROから考えます。
  • HOME
  • 記事
  • ZERO management
  • トヨタ「センチュリー」を最上級ブランド 夢に挑む佐吉翁は、ひ孫の懐古趣味を喜ぶか

トヨタ「センチュリー」を最上級ブランド 夢に挑む佐吉翁は、ひ孫の懐古趣味を喜ぶか

 トヨタ自動車が「センチュリー」を「レクサス」を超える最上級ブランドとして独立させました。トヨタグループの源流である豊田自動織機製作所を創業した豊田佐吉氏の生誕100年を契機に1967年に誕生したブランドで、皇室や企業トップらが利用する最高級車です。創業家を継承する豊田章男会長は「次の100年をつくる意味を込める」と説明し、最上級ブランドに格上げした思いを語っています。

「次の100年をつくる」

 果たして豊田佐吉翁はひ孫の章男氏の思いに喜ぶのでしょうか。豊田佐吉翁といえば、果敢に挑戦することを信条としていました。若い頃、最新の技術や発明を紹介する博覧会に行くため、歩いて東京へ向かう熱意の持ち主です。自動織機の開発に執念を燃やしただけではありません。発明に夢を追い続け、特許84件、実用新案35件など創意工夫に挑みます。「あきらめなければ必ず道がある、必ず」と揺らぐ自身の不安を吹き飛ばしていたそうです。

 壮大な夢もありました。佐吉翁が100年前に発案した「佐吉電池」です。飛行機で太平洋を飛び越える能力を持つ電池の開発に挑みました。100馬力を36時間発揮できる能力を想定し、重さは225キロ、容積は280リットル以内と設定しました。初代プリウスが内蔵した電池パック1400個分に相当するそうです。成功すれば懸賞金100万円を手にできます。現在の金額に換算すると100億円というのですから、常人の発想ではありません。

 実は、この「夢の電池」は豊田会長が10月末のジャパン・モビリティーショーで「センチュリー」の2ドアクーペをお披露目した同じ会場に出展したトヨタグループのトヨタバッテリーが「豊田佐吉翁と夢の電池」というコーナーを設けて紹介していました。

佐吉翁は100年前に「夢の電池」を発案

 なんとも不思議な光景です。ひ孫の章男会長が「次の100年」を強調し、最上級ブランドの2ドアクーペを「ジャパンプライド」として世界に発すると胸を張りますが、100年前の曽祖父、佐吉翁の視線は自動車を飛び越え、電気をエネルギーとする飛行機の発明に向かっていたのですから。佐吉翁が「センチュリー」のブランド化に挑むトヨタを見たら、時間の針が止まっている、あるいは時計の針を逆戻りさせていると映るのではないでしょか。懐古趣味に浸る余裕なんてない!と一喝しそうです。

 というのも、章男会長の祖父、喜一郎氏は1930年代、すでに電気自動車の開発に挑んでいるからです。

 1939年(昭和14年)に発行された「モーター」11月号「トヨタ電氣自動車試作ー副社長豊田喜一郎氏抱負を語るー」で、喜一郎氏は失敗を恐れず挑戦する志が電気自動車の成功に導く覚悟を披露しています。当時のトヨタ自動車工業はディーゼルエンジンの製作にも成功し、開発力に自信を深めていました。太平洋戦争に向かう日本の国情を考えて、石油など資源が乏しい日本の苦境を解決するためには、水力発電から得る電力を蓄え、自動車などに利用する道を開くことが重要と考えていたからです。

 佐吉翁が「夢の電池」を発案したのも、1924年に米国陸軍航空隊が世界1周に初めて成功したことがきっかけでした。翌年の1925年、佐吉は帝国発明協会に50万円の基金を寄付するとともに、協会内に蓄電池を研究する豊田研究室を設けます。1927年から募集を始め、31年、35年と続きますが、成功しませんでした。

祖父喜一郎は電気自動車を試作

 喜一郎氏は父佐吉の思いを継ぎ、1939年に東京・芝浦に蓄電池研究所を新設。多くの化学者が絶対に無理と指摘した問題点を友人の博士と研究し、「従来のものより1割程度軽く、振動に強くしかも短時間に大きな放電に良い特性を持った優秀なものができるようになりました」と成果を語っています。電気自動車の試作に成功しましたが、歴史が語るように電気自動車が実用化するには100年の歳月が必要でした。

 トヨタは今こそ佐吉、喜一郎の先人が挑んだ夢に実現に向かって欲しい。電気自動車はもちろん、電気飛行機もトヨタなら夢を現実にできます。トヨタの背中を押すのは次の言葉ではないでしょうか。「百の苦難を耐え忍び、千の訓練で鍛えれば、目標を達成することができる」。佐吉翁が大事にしていた言葉です。

関連記事一覧