坂本龍一さんを悼む 自身の言葉で辿る音楽の道 自由を楽しみ、世界の平和を奏でる

 坂本龍一さんが亡くなり、さまざまな分野の人たちの悲しみの言葉がメディアにあふれている。それだけ影響の大きな人物だったのかとあらためて感じつつ、そうした追悼の言葉に触発され、故人の声を紹介したいと思い立った。14年前に初の自伝「音楽は自由にする」(新潮社)発刊に際し、ある経済誌の著者インタビューで私に語った彼の言葉をお届けする。(城島徹)

ピアノの先生

 坂本さんは「出会い」に恵まれた人生だった。父の坂本一亀さんは野間宏、高橋和巳、埴谷雄高、三島由紀夫、丸谷才一、小田実、山崎正和らの作品を世に出した河出書房の名編集者であることはよく知られているが、「進歩的な女性」だった母親の存在も見逃せない。公立幼稚園ではなく、美術、音楽、動物の飼育を重視するカリキュラムを持つ「自由学園」系の幼稚園に通わせ、そこで坂本さんは初めてピアノを弾く機会を得たのだ。

 その幼稚園には『ピアノの時間』があって、みんなが弾いたのです。小学校に上がるとみんな幼稚園の同級生がバラバラになるので1週間に1回、同窓会みたいに、みんなでピアノの先生に習いに行こうよいうことで、うちの母親にも声がかかったんです。幼稚園の同級生と町のピアノの先生に習いにいっただけで、うちはそんなに熱心ではなく、付和雷同でついていっただけです。でも、そのピアノを教えてくれた徳山寿子先生と会ってなければ、僕は音楽家になってないわけです」

 坂本家にはそれまでピアノがなく、初めてアップライトのピアノを買ってもらったという。徳山先生の教室で坂本少年はバッハの音楽と出合い、大好きになった。

 「それは先生の指導もあったけど、バッハの音楽自体が他と違っていました。僕は左利きだったから、おとしめられている意識が子どもながらにあったけど、バッハのピアノ曲は左と右の指が対等だったです

 ピアノ曲は右手がメロディー、左手が伴走という曲が多く、それが嫌いだった坂本さんにとって、右手に出てきたメロディーが左手に出てくるなど、左右の手が役割を交換して進行するバッハの曲に惹かれたというのだ。

小学校のころ

 実は坂本さんの通う都内の小学校に私は1963年に入学した。その時、坂本さんは6年生で、1年間だけ同時に在籍したことになる。そう打ち明け、私が住んでいた団地名を口にすると、懐かしそうに

よく自転車で銀玉鉄砲の戦争をしに行ってましあと僕らのころの遊びはけん玉とかフラフープが流行っていましね」

 そこで「つりがね池」という遊び場の名を出してみると、坂本さんは即座に

「行きましたよ。ザリガニを捕りに。ちょっと古い日本が残っていましたね。カラスウリがたくさんなっていて。昭和の光景がありました。そうそう。うちの周りも舗装されてなかったんじゃないかな。大人になってからの場所を見に行ったら、埋められちゃってましたね」

と懐旧に浸るかのような表情を浮かべた。

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