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東電の社長とは③ 電力の自由化を経営変革のチャンスにできず、今も事故隠し→陳謝の繰り返し

 東京電力が社長のリーダーシップを再構築するチャンスがあったと思います。1999年、荒木浩社長の後継として南直哉さんが社長に就任しました。目の前には電力の本格的な自由化が待ち構え、地域独占に慣れきった電力会社にとって競争原理に晒される新しい風は経営を変革する追い風でした。南社長なら過去の堅い殻を打ち破れるはず。こう期待していました。

南社長なら硬い殻を破るかも

 社長就任10年前の1989年、企画・広報担当の取締役でした。私はちょうど東京電力の担当記者として足繁く通い始めた頃です。東電の役員といえば日本の産業インフラを支える誇りを背に人を寄せ付けないイメージがありましたが、南さんには皆無でした

 といっても新聞記者の扱いに慣れたふりもせず、それなりの距離感、緊張感を互いに保ちます。通産省から「うちよりもお役所体質」と揶揄された東電でしたが、「南さんが真顔で説明するなら、信用できるかな」と感じたものです。それは他社の記者も同じ感覚を持っていたと思います。

 翌年の1990年、東電の平岩外四会長が経団連会長に就任します。南さんは東電取締役という役割より、平岩さんの右腕として財界、政界、経済界を相手にフル稼働していました。南さんの部屋でお話ししていると、机の上の電話がジャンジャン鳴り始めることがたびたび。彼は受話器を取って相手の話に相槌を打ち、時には目が吊り上げて説明することもありました。すぐ目の前に新聞記者がいることを忘れたかのように熱くなるので、黙って聞いているだけで新聞ネタが転がって来そうな気がしたものです。受話器を置いた後、「寄付などカネがらみの話が半分かな」とよく苦笑していました。

平岩経団連を支え、人脈も広がる

 経団連会長を担ぐ企業は、目に見えない「カネとヒト」を負担します。もちろん違法・不正行為は許されませんが、さまざまなモノが空から振ってくるようです。経団連は日本の経済界の総本山、大企業が結集しているとはいえ、新たな政策提案などを調査し、議論するためのお金も人材も無尽蔵にあるわけではありません。

 こんなエピソードを噂で聞いたことがあります。トヨタ自動車の奥田碩会長は自身が務めていた経団連会長の後任としてキヤノンの御手洗冨士夫会長に求めた際、御手洗さんは「キヤノンに経団連を支えるカネとヒトはない」を理由に断ったそうです。奥田会長はヒトはトヨタが、カネは自分のポケットマネーから出すと話し、会長受諾を説得したそうです。

 平岩会長が経団連会長として陣頭指揮を取って進めるテーマとなれば、東電の優秀なスタッフがフル回転するのは当たり前でした。現場指揮官は企画・広報取締役の南さん。自ずと人脈は広く、深まります。だからといって、だんだん強面に変貌することはありませんでした。

 例えば「夜回り」。夜遅く帰宅した時に自宅前で待ち構えて取材するのですが、南さんは自宅に入らず一緒に外を散歩しながら、こちらが確認した案件について丁寧に説明してくれます。東京電力に向けられる厳しい批判を恐れているわけではありませんでした。日本の電力・エネルギー産業の頂点に立つ東電ですから、多くの批判を浴びるのは当然と受けていました。しかし、誤解は困る。情報は極力、公開する。そんな意気込みを感じました。

 南さんなら東電をどう変えるのか。那須翔さんの後は、荒木さんじゃなくて南直哉さんにバトンタッチして欲しかったくらい」と他の新聞記者が話すほどファンが多かったのは事実です。

競争原理が経営改革の追い風に

 南社長の経営手腕は電力の自由化で発揮されるはずでした。日本の電力は沖縄電力を含め10社が地域独占していましたが、2000年以降に自由化の波が待ち構えていたからです。1985年に日本電信電話公社が民営化したNTTと単純比較はできませんが、東電も事実上は国策会社の性格を帯びていました。日本の電力供給だけでなく、海外に依存する石油・ガスなどのエネルギー調達で主導的な役割を果たしていました。その意味でも電力の自由化は本当の民間企業への殻を破るきっかけでした。

 それは時代が東京電力に求めていることでした。電力事業には「発電」「送配電」「小売り」と3つの部門がありますが、1995年の電気事業法改正でまず発電部門が原則参入自由に。2000年代は自由化の範囲がもっと広がります。地域独占する電力会社はかつてのお殿様として鎮座しているわけにいきません。新規参入組と競争し、勝ち抜く発想の転換が求められていました。

 わかりやすい例は社長の経歴の違いでしょうか。荒木社長まで政界、官界に強い総務部出身が務め、大組織をまとめ上げる力を発揮してきました。ところが、南社長は経営企画育ち。産業界にも顔が広く、総務部系よりは”営業力”が期待できます。電力の安定供給だけを考えていれば良かった時代は終わり、ライバルが提示する価格に対しどう説明し、顧客を守り、新規開拓するのか。東電の常識が通用しないビジネスの発想が社長にも求められていたのです。

南社長は2002年にデータ隠しで辞任

 南社長は2002年9月、原発の自主点検データ改ざん問題が発覚し、一連の責任を負って辞任します。データ改ざん問題は定期点検と異なる自主点検だったこともあって事故や修理の解釈に乖離があったようですが、米GEの技術者による内部告発によって大きな社会問題となっていました。当時の原子力安全・保安院は調査した結果、東電の不正と判断。南社長はじめ平岩、那須、荒木3氏の社長経験者が職を辞しました。東電として前例のない責任の取り方で変革の気構えを示したはずでした。

 南社長の就任期間はわずか3年。歴代社長は6年以上務めていましたから、経営手腕を十分に発揮できたとは思えません。南社長の辞任のあと、東電の原発で予定していたプルサーマルは無期限凍結も発表しました。原発の安全管理も改め徹底したはずです。事故の細部は違いますが、その後も東電の経営は原発を巡る事故隠し、陳謝の繰り返しを今も続けています。2002年の歴代社長らの辞任が残した教訓はなんだったのでしょうか。

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