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Hiroshima・広島、Minamata・水俣、そして Fuku・島(その2)広島の市電から2つの街が見える

市電が走る街で育ちました。小学生の頃は市電に乗ると運転席のすぐ後ろに立ち、運転手さんがレバーを操作する手順を眺めて”電車ごっこ”したものです。40歳過ぎて赴任した広島市でも市電が走っていました。さすがに運転手さんの背中を前に立つのは避けました。横長に配置された椅子の一番前か後ろに座って、走り去る広島の街を目で追うのが密かな楽しみでした。最近の市電は乗り降りが楽な低床型が人気ですが、私は昔ながらの木製車体の電車を気に入っています。広島では8月6日に被爆したいわゆる「被爆電車」も走っています。私は単に古い電車が好きなだけで、その理由は運転席のすぐ後ろに木製の額縁のような間仕切りがあるからです。街の風景が四角い空間に切られて映画のコマ送りのように登場します。古い電車ですから、走り出す時は「ゴォーゴォー」あるいは「グォーグォー」とおなかに響く音が発生。ブレーキをかけると今度は「キィーキィー」と肌がザワっとするような金属音が鳴り始めます。レールの上とはいえ、クルマが走る混雑した市街地を走り抜けるわけですから、市電は「ゴォーゴォー」と「キィーキィー」と激しい息遣いを繰り返しながら走り続けます。なんともいえない金属音をBGMに聴きながら、額縁の空白には原爆ドームや近代的なビルに象徴される「HIROSHIMA」が現れ、すぐに戦後・昭和の香りと人間の息遣いが感じられる「広島」の街並みが続きます。「ああ、広島には二つの街の風景があるんだ」とわかった時でした。

HIROSHIMAは原爆ドームや平和記念資料館などを通じて平和を世界に訴える広島市の顔です。人類初の原子力爆弾を投下された地として「TOKYO」以上に知られ、毎年8月6日には世界に向かって平和のメッセージが発信されます。オバマ米大統領はじめ海外の要人も煩雑に広島を訪れています。2003年キューバの最高指導者フィデル・カストロさんが広島を訪れた時、平和記念館などを視察した際に同行しました。国賓などで来日したわけではなかったので予想外にもすぐ隣に立って一緒に歩ける機会があり、カストロさんが発する言葉が聞こえる時があります。視察後、核廃絶にむけた公式スピーチを発表して「絶対に、絶対に、人類はあなた方が体験したような経験を繰り返すことがあってはなりません」と強調されていましたが、独り言のように「よくこれだけのことをされて米国と手を組めるものだ」という趣旨を発言していたそうです。広島県の平和教育は全国でも抜きん出ています。施設見学、授業などで多くの時間を使って平和、核廃絶の重要性を考えます。広島出身の後輩が東京に出てきた時のエピソードを教えてくれました。大学に入った最初の夏休みは遊びたかったが8月6日は大学へ登校したそうです。ところが教室には誰もいない。とても驚いたそうです。「広島では8月6日は登校してみんなで平和を祈る。全国どこでも8月6日は学校で同じ行事が開かれていると思っていた」と苦笑していました。

HIROSHIMAについて両手を上げて賛成する人ばかりではありません。「広島市長は世界平和に力を入れるのと同じ認識を持って、地域の産業、企業を支援して欲しい」と明言する経営者は少なくありませんでした。若い人たちからも「8月6日を迎えると、記念資料館などで見学した悲惨な光景が思い起こされて心理的に辛い時がある」との声を聞きます。広島と長崎を原爆被爆地として最後の地で終わらせるためにも、世界へ発信する役割は担うと覚悟する人がほとんどです。

そして「広島」。漢字の広島です。人口は100万人を超える政令指定都市。周辺には自動車メーカーのマツダを筆頭に製造業、食品、サービスなどの有力企業の本社が集まり、中国・四国地方の政治・経済の拠点です。第二次世界大戦前は南に呉市があるため、海軍や陸軍の主要施設がある軍都でした。昭和20年8月6日に原子力爆弾が投下され、壊滅的な被害を受けます。75年間は草木も生えないと言われましたが、軍都に集積した産業、企業が残した財産が広島の復活を支えます。マツダについての説明は不要でしょう。中堅企業でも個性的な事業を創出し、日本、世界へと事業の舞台を広げる経営者が多いです。ふりかけ「ゆかり」を送り出した三島食品、広島風お好み焼きを全国ブランドにしたオタフクソース、「かいわれ大根」を開発した村上農園、装飾品のビーズで世界シェアを握るトーホー、精米機械トップのサタケなどなど。いずれも他社が追随できない技術力と商品開発力を持ち合わせています。負けじ魂も抜きん出ます。例えば村上農園。創業者の村上秋人さんは主力商品に育てたかいわれ大根が1996年に発生したO157食中毒の起因になったという誤認が広まり壊滅状態に追い込まれましたが、ブロッコリーの芽である「スプラウト」や「豆苗」をヒット商品に育て上げ、巻き返しました。米大学と組んで独自に食品研究を進め、大手が真似できない食品の「Disruptor」です。いずれも地域にしっかり根付いて「広島」を再構築した力です。この負けじ魂が球団カープの強さの源です。

戦後、昭和の息遣いを感じる広島といえば映画「仁義なき戦い」を思い起こすかもしれません。私もいくつも目にしました。ある日、広島駅新幹線口前の広場や交差点がベンツで埋まり、交通が遮断された時がありました。渋滞じゃないです。不法駐車です。後で聞いたら有力組長の葬式があったそうです。広島県警は暴走族の一掃でも大きな成果をあげていることからわかるように、日本の警察の中でも取り締まりが厳しいことで知られていますが、あの時の警察はどういう対応したのでしょうか。会社の事務所があった大通りを挟んだ向かいのマンションに銃弾が撃ち込まれる事件もありました。敵対する組長の愛人が住んでいたそうです。ある夜、広島を象徴する薬研堀あたりをタクシーで走ったら、多くの組員がある街区を囲むように立ち並んでいました。「今夜はどこかの親分が来ている。あの通りは近寄れない」と運転手さんは真顔で注意してくれたことも。有名な高級クラブは今でいう反社会の人物の入店を拒否し続けたため嫌がらせで糞尿を巻かれたこともありましたが、経営者は絶対に屈しなかったそうです。そういえば映画を制作した東映の岡田茂社長は東京の広島県人会の会長を務めていました。広島県人は負けないのです。

世界遺産の原爆ドームや巌島神社、平和記念資料館など著名な建造物があります。私にとって広島の建物はアンデルセンの旧本店です。もともとの建物は1925年三井銀行広島支店として建設されましたが、被爆してほぼ全損。アンデルセンの創業者である高木さんが1967年に買い取り、被爆した壁を保存したまま、旗艦店のビルを建設しました。広島市の繁華街である本通り商店街にあり、石窯で焼くパン、生ハムなど総菜類のレベルが高く、高級ワインは東京より3割以上も割安に買えました。「今夜はうまいものを食べてのんびりしよう」と思ったら、アンデルセン本店に向かったものでした。なにしろチョコレートのカリスマで知られるフランス人のジャン・ポール・エバンがここなら信頼して自分のチョコレートを預けられると決めた店はアンデルセン本店と東京の伊勢丹本店だけでした。被爆の記憶を残しながら、今と未来へ向かう真摯な精神を示したアンデルセンの創業者魂を理解したからでしょう。

昨年秋、久しぶりに広島を訪れました。オバマ大統領が訪れたこともあって海外観光客が急増したため、外人向けのゲストハウスがあちこちに出来上がっていました。私は原爆ドームから歩いて五分ほどのところに住んでいましたが、周辺にはワインなどがメインになった小洒落たレストランに増え、安い焼き鳥、お好み焼き、つけ麺が軒を連ねていた「広島」の安い飲み屋街の臭いが薄れていたのは残念でした。アンデルセン本店は2020年に建て替えられ、経営者も創業家から変わっていました。平和記念公園すぐそばの平和大橋が様変わりしていたのは意外でした。この橋はイサム・ノグチが設計し、1952年に完成。平和大橋の欄干デザインには「新たに自己の生活を建設する者の特に再建広島の理念を伝えるものとすべきである」(広島市HPから)というイサム・ノグチの思いが込めれているのですが、利用する通行人の目線で見ると欄干、手すりの高さが通常の橋に比べ低く、自転車で走ると元安川に落ちそうな怖さを感じる時がありました。3年前、大橋に歩道用通路が併設され幼稚園児が並んで渡っているのを見てほっとしました。イサム・ノグチの名作に手を入れるにはかなりの勇気が必要ですが、橋は公共インフラですからね。夜のイルミネーションなども増え、10年以上かけて少しずつ広島の街の彩りを増やす努力が至る所に「変わり続けよう」という市民の心が見え、さすがだなと感じ入りました。

広島の市電は都心から枝分かれして住宅地に入り込んでいきます。電車の路線は窓から手を出せば建物に触れるぐらいギリギリの路地を走り抜けます。「広島」は間近にまだまだ感じられます。しかし、「HIROSHIMA」と「広島」が互いにバランスをとりながら、街全体が新陳代謝していくのは確実です。被爆の記憶を守りながら、しかも時代に流されずに掲げた理念を追求するアンデルセン創業者の魂だけは守ってほしいです。

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