SUVブームを作った四菱自動車

ほぼ実録・産業史)四菱自動車、名門ブランドの功罪を背負って 連載14

四菱自動車ーー 日本国内では織田自動車、日進自動車、オンダの陰に隠れてしまう自動車メーカーですが、東南アジアで高い人気を保っており、驚くかもしれません。世界の自動車産業のプレーヤーとしてそんなに注目を浴びているわけではありません。一時期は四菱財閥グループが買うので存続できると言われたこともありました。しかし、この会社の経営を解析すると、日本製品の強さと弱さが図らずも炙り出てきます。日本の自動車メーカー、あるいは日本の製造業は知らないあいだに四菱自動車が背負った宿命と同じ道を歩んでいるのかもしれません。検証する価値は十分にあります。

「日本製」の宿命を体現しているかも

日本の自動車メーカーは雨後の筍のように誕生する中国を例外とすれば、世界の自動車アナリストから「一国にこんなに多数あるのはおかしい」とよく言われます。当事者の自動車メーカーから見れば、縮小する日本市場を拠点に世界市場でしっかりとシェアを維持して経営できるのだから「それだけの価値と実力を備えていることを証明している」と反論したいでしょう。ただ、失礼ながらも30年後の自動車市場を俯瞰した場合、存続できる、あるいは存続して新しい価値を生み出して欲しい自動車メーカーのランキングを作ったとしたら、四菱自動車が上位に並ぶことはないでしょう。

四菱自動車を人間に例えて、その胸の内を覗いてみましょう。本音は「本当はもう家業の跡を継ぎたくない」。にもかかわらず、本家や親戚一族が「うちの家系から倒産は許さない」と睨みつかれ、仕方がなく自動車を家業として継続している。こんな心境に近いのではないでしょうか。1990年代、四菱自動車の立川良夫社長は目頭を熱くして語ってくれたことがあります。四菱自動車は1970年に四菱重工業から独立した会社です。それから30年近い年月を経て四菱重工業の売上高を上回った時でした。「一事業部門から分離・発足して以来、心に秘めていた悲願をようやく達成した」と思わず言葉を飲み込みながら、胸の内を明かしたのです。四菱グループの厳しい企業ヒエラルキーの中で常に格下のメンバーとして扱われた悔しい過去の心境を思い出したようです。

1960年代後半、日本の高度経済成長は次の飛躍期に入り、自動車(Car)は「カラーテレビ、クーラー」と並ぶ新しい三種の神器の一つに数えられ、需要は急速に拡大しました。1980年代に入っても四菱ブランドの自動車の車名はほとんど知られていません。販売店のセールスマンが戸別訪問してもドアも開けてくれない。運よく玄関先に入れてもらい、お客さんに自動車紹介のパンプレットを開いて「この車は4ドア、3ドア・・・」と説明すると、お客さんから「うちは冷蔵庫はいらないよ」とあっさり断れらることはたびたびだったそうです。四菱ブランドのクルマは10年以上も前に三種の神器として数えられた冷蔵庫にも適わない程度の知名度だったのです。

優れた製品です。しかし、「お客」を忘れていました。

製品は優れています。エンジンは出力、耐久性ともに優れ、多くの機能で他社に引けを取ることはありません。何しろ四菱財閥は明治時代から日本の富国強兵を支えてきました。第二次世界大戦前から日本の軍事産業を支えており、四菱重工業はじめグループ企業は戦車や船舶などで培った技術力で他を圧倒しています。技術力は十分です。製品の性能が優れていないわけがありません。重工業の遺伝子をそのまま継承したのが唯一の失敗でした。

不足しているのはただひとつ。消費者を忘れていたことでした。軍事産業は勝利することが目的です。使いにくいなどはある程度目をつむり、性能最優先で貫き通すことができました。しかし、自動車はトラックはまだしも、乗用車となれば運転するお客の視線が最も重要になります。その視点がわからないのです。

典型例は同社の高級車「デボネス」です。1964年に織田や日進が牛耳る高級車市場に投入されました。日本最大の財閥である四菱グループの社長が織田や日進の高級車に乗っているのでは格好つかないからです。ボディーはモノコックを、足回りは前輪がウィッシュボーン独立懸架、後輪が板バネをそれぞれ採用しました。板バネは耐久性に優れますが、通常はトラックか商用車に使われます。高級乗用車に採用する発想がすごいです。しかも、発売から1986年までの22年間、モデルチェンジしませんでした。何度も乗車したことがあります。後部座席にすわって東京の首都高速を走ると路面の継ぎ目でお尻がポンと跳ねます。2000CCクラスの乗用車ではなかなか経験できない面白さでした。「走るシーラカンス」という異名すら持っていたほどです。全面改良する、しないは会社の考え方ですから異論はありません。

むしろ22年ぶりのモデルチェンジが四菱の本領発揮でした。デザインは一新され、エンジンは流行りのV型6気筒を搭載し、高級車開発の意気込みを感じました。変わらないのは機能本位の開発姿勢でした。「お客さん」を忘れてまいました。自動車電話が普及したこともあって通信機能を高めるため、高性能アンテナを採用したことまでは良かったのですが、アンテナの長さが過ぎてアンテナを伸ばしたままビルの駐車場に進入すると、アンテナの頂点が駐車場の天井にぶつかり、折れてしまうことが発生します。ドア横のタバコの灰落としの穴は笑えました。穴が深過ぎてタバコを落としてしまうと指が届かず、タバコを取り出せない。

とても些細なことと思われるかもしれません。しかし、「クルマを使う身になって開発したのだろうか」という素朴な疑問が湧くほど些細な欠陥が次々と指摘されました。四菱自動車にとって高級車は機能が優れた生産財であって、消費財ではなかったのでした。

もちろん、四菱自動車は「ランナー」「オマージュ」などの小型車では性能と使い勝手の優れたモデルを発表しています。SUVブームの先駆けである「ポジェロ」も開発しています。この車はオーストラリアを3年間、走り回った愛車でした。私は四菱自動車のヘビーユーザーでした。だからこそ、手厳しい評価を続けてしまうのかもしれません。

1989年に就任した有村陽一社長は「売れる車」作りに邁進します。他の日本車メーカー同様、高品質の評価を得た日本車は世界の市場で人気を集めますが、四菱は「フォーダイヤモンド」ブランドと呼ばれ、東南アジア市場では織田や日進、オンダをしのぐ勢いを確立しました。

ブランドが経営をがんじがらめに

目覚めた四菱は成長軌道をまっしぐらに突っ走ります。クルマを売ることにまっしぐらです。でも、販売拡大することが最大の経営目標になってしまい、何よりも忘れてはいけない車に乗るユーザーに対する安全と安心を提供することがやっぱり置き去りになっていました。四菱重工業から継承したDNAが会社の戦略を創造し、推し進めます。それが2000年代に入ってからの苦悩が始まる根源でした。そして次第に四菱のブランドが経営をがんじがらめにしていくのです。

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