実録・産業史10 終焉を迎える創業家による経営 トヨタは豊田家か

それを体現したのが豊田英二さんでした。経営危機後に社長を務めた石田退三さんとともに現在のトヨタを築いた人です。中興の祖と呼ぶ人は多く、親しいトヨタマンは「自分が仕えた社長の中では最も尊敬できる人」と語ります。ちなみに「カローラ」「コロナ」「カムリ」などの名称は豊田英二さんが創業者の豊田喜一郎さんが考案したクラウンを念頭に「冠」から捻り出しだそうで、カムリは「冠(かんむり)」からだそうです。ちょっと無理がありますが、案外柔らかい発想の持ち主だったのかも。カムリは2000CCクラスの乗用車ではコストと性能が最もバランスが取れた車としてトヨタ社内で人気で、ベテラン広報部員が「モデル末期のカムリが品質が安定して値段も割安」と購入した時はなるほどと思ったものです。

あるパーティーでお話した時です。1980年台半ばから純利益は2000億円台を超え、当時の日本企業の収益力としては抜群の水準でした。私はトヨタの利益水準をどう見るんですかと尋ねました。当時の豊田英二会長は「利益は水道管のカスみたいなものだ。水道管の中を大量の水が流れるだろう。そうすると管の表面にカスがつくんだ。売上高が成長すれば、利益は自然についてくる」とあっけらかんと話します。1950年の経営危機を忘れまいと無借金経営を標榜し、「トヨタ銀行」と呼ばれるほどの財務体質を築く一方、コスト管理は社内の隅々まで徹底されていました。そんな思いを臆面にも出さず、品質、コスト管理と販売力に自信を持っているのでしょう。「水道管に水が流れるように経営すれば利益が生まれる」と自らの強さを確信していました。

しかし、絶対に見逃してはいけないのは豊田家を御神輿として担いだ傑出した経営者たちです。大番頭あるいは家老と呼ぶ人もいますが、適当ではありません。トヨタの経営を事実上主導しており、補佐という役回りを超えていたと思います。豊田家は御神輿に鎮座しているだけ。担ぎ棒は先方から後方までしっかりと優秀な人材が背負って前進、時には後進する

その1人がトヨタの強さの象徴でもある販売網を築いた神谷正太郎さんです。1950年の経営危機をきっかけに設立されたトヨタ自動車販売の初代社長を務めた人です。その辣腕とカリスマ性は凄まじかったようです。トヨタの奥田碩社長ら国内販売、輸出を担ったリーダーたちは神谷正太郎さんの薫陶を受けた人材ばかりです。自販の本社があった東京・九段下は事実上のトヨタ本社所在地と勘違いするほど人と情報が集まっていたそうです。神谷氏は晩年、インドネシアの石油開発に手を広げるなどリスクを恐れない人物だったらしいですが、その豪放磊落の空気はトヨタ自販で共有され、自販育ちの人からは侠気が匂う「いなせ」あるいは「凄み」を感じたものです。その典型例が奥田碩さんでしょう。自販出身者で奥田ファンが多いのがわかります。

トヨタ自動車工業では、やはり花井正八氏、辻源太郎氏ら経理部門、いわゆるトヨタ銀行と呼ばれる無借金経営を実現した面々です。後にトヨタ社長に就任した奥田碩も経理畑で育っています。慎重に物事を進めることを石橋を叩いても渡ると表現しますが、トヨタの場合は「石橋を叩き壊してしまって渡らないことがたびたびある」と皮肉られるほど事業計画などを精査されたといいます。

ところが花井さんも辻さんもお会いすると想像していた印象と違うのです。経営危機を教訓に無駄を絶対に許さないトヨタ銀行の異名から花井さんや辻さんにもガードが堅いイメージを重ねていましたが、実際には率直になんでも話してくれます。社内の箸の上げ下ろしも含めてすべて承知していると言わんばかりに自信を持ってトヨタの経営、戦略について答えます優秀な人物はやはり小物じゃないです。違います。

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