手話で知る「会社じゃない社会」何も知らずに定年を迎えた怖さを思い知る

 手話を学ぶことは、コミュニケーションとしての言語の所作だけではありませんでした。40年間、新聞記者を稼業を続け、それなりに世間は知っているつもりでした。手話講座に参加して2年近く経ちますが毎回、自分が見逃していた、あるいは気づきもしなかったことを教えてもらいます。「こんなに世間を知らずに新聞を毎日、作っていた」。正直、愕然とし、恥じてしまいます。

NZなどでは公用語

 手話は、耳が聞こえない人が意思疎通するための言語です。海外ではニュージーランドやパプア・ニューギニアなどで公用語として設定されています。日本は日常生活で手話に接する機会が少なく、テレビの手話ニュースや首相の記者会見の隣で手話通訳の方が伝えるシーンを見て、手話を意識するぐらいでしょうか。

 「手話は、どのように伝えようとしているのか」。手話を学ぼうと考えたのは、新聞やテレビを通じて物事をどう伝えるかを仕事としていたためです。文字や動画以外の方法を使って、自分の考えをどういう表現で伝えるのか。手の所作が象形文字の組み合わせにも思えて、以前から興味がありました。手話講座に通い始めて2年目で、まだ初心者である自分が手話の奥深さはとても語れませんが、素朴な驚きはこれまでもこのサイトで掲載してきました。

2年目に入り、身近な話題を語る

 講座2年目後半に入ると、講師や生徒?のみなさんと親しくなるせいか、手話を使って身近な話題を表現する段階に移りました。もちろん、初心者の自分が伝えられるのは、「私の名前は・・・」「趣味は散歩で、毎日公園を歩きます」という程度。ただ、講座の回数が重なり、手話で伝える話題は「今年の抱負は?」「年末年始はどう過ごしましたか?」などに広がっていきます。

自然、講師や生徒の生活や考え方などを垣間見えることがあります。講師は地方から上京して結婚し、お子さんや愛犬とともに過ごしていらっしゃるそうです。耳が聞こえない生活とはどんなことなのか。そういう思いでこれまで体験した様々なエピソードを教えてくれます。

 例えば近所で火事や大騒動があっても、自宅にいると消防車やパトカーの警報が聞こえないので気づかない。突然、消防士や警官が訪れ、避難するよう言われる。私も同様な経験がありますが、ドアを開けたら完全防備の消防士が立っていたら、かなり驚きますよ。

 耳が聞こえない生活を考慮し、自治体から手話や文字などを伝えるテレビ受像機やドアホン代わりに利用する警告灯などが配布されるそうです。でも、講師の方はテレビ番組の内容に興味がない場合が多く、一緒に住んでいるお子さんや愛犬が危険や来訪者があれば教えてくれるので、警告灯などはほとんど使用していないそうです。

耳が聞こえない人は一見、わからない。だから思わぬことが

 言葉を失ったのは、旅行先で外国人観光客に突然、胸元を掴まれたエピソードでした。有名な観光地を家族と訪れた時でした。バスで訪れた多くの外国人観光客の1人に突然、呼び笛を掴まれたそうです。

 声を出して正確に危険を周囲に伝えることができない場合に備え、いつも緊急時に知らせる呼び笛を首からぶら下げています。その時は運悪く家族とちょっと遅れて歩いており、愛犬とともに1人で歩いていたそうです。

 講師は年齢を重ねている女性ですから、突然、ネックレスのようにぶら下がった笛を掴んで引き寄せたら、とても危険です。外国人観光客が突然、なぜ興奮したかはわからなかったそうです。

 推察するに耳が聞こえない人は一見してわかりませんから、呼びかけたのに無視されたと勘違いしたのかもしれませんと言います。耳が聞こえていたら、外国語で理解できなくても一応振り向くはずと多くの人は思います。日頃、「ありえない」と当たり前と思っていることが耳が聞こえない人には起こり、そして体も心も傷つけることになる。怖いことです。

生徒の話題も腑に落ちることばかり

 私たち生徒も、授業の一環として日常生活について家族や自分自身の仕事などを手話で説明します。話題は両親、お孫さん、故郷の実家など千差万別。手話講座に参加する動機も家族やお孫さんとの会話に必要だから、ボランティアとして活躍の場を広げたいから、などさまざま。コミュニケーションとして勉強したいと暢気な動機は見当たりません。それぞれが人生劇場で、いずれも腑に落ちるエピソードばかり。「へえ〜」という驚きの連続です。

 改めて思い知らされます。自分が会社で過ごした40年間は限られた狭い世界を泳いでいただけ。新聞の取材を経て経済を中心に日本国内、世界を飛び回り、多くの人物に会いました。時には大統領や首相などの政治家、世界的な企業のトップらにインタビューします。すべては良い記事を書くためです。

世間を知っているつもりが、実は世間知らず

 ただ、知らず知らずのうちに目線は偏り、視線は見たいものを見ているだけ。自分は世界を語っているつもりでも、実際は目の前にあるビールの泡を吹いているだけ。もっと視野を広め、深掘りする努力が不足していました。知識として頭の中に収まっていても、自分以外の出来事を遠目に見てしまう。

 とりわけ、耳が聞こえない世界は自分の日常生活から縁遠いだけに、同じ世界に住んでいると思いながらも、どんな出来事が起こっているのか全く知らない。

啄木は手を見て悲しんだが、手には可能性がいっぱい

 石川啄木の歌の一節を思い出します。小さい頃、啄木が歌をよく詠んだ函館市に住んでいましたので、数句覚えています。そのうち「はたらけど、はたらけど猶わが生活は楽にならざり、ぢっと手みる」。手のひらを見つめ、自身の人生のつらさを語っていると理解していました。

 しかし、今は違った解釈をしたい。歌人が思った以上に「手」が持つ強さをもっと感じたい。手には表現力と困難を切り拓く可能性を持っているのだ、と。

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