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和倉温泉・加賀屋「渚亭」旅館の企業経営を証明、次代「おもてなし」創造の礎に 

 とても残念なニュースです。石川県和倉温泉の加賀屋が能登半島地震で被害を受けた「能登渚亭」「雪月花」など主力4棟を宿泊施設として復興することを諦めました。能登半島地震で大きな被害を受けて行方が心配でしたが、断念することに。加賀屋は経営規模の大きさ、サービス品質で高い評価を集め、日本一の旅館としてその名を国内外で知られていますが、能登渚亭はそのシンボル。個人経営が当たり前だった旅館を企業経営として発展できることを証明しました。この功績を次代にどう進化させるか。観光立国・日本を成功させるためにも、能登渚亭のDNAを全国で継承してほしいです。

能登渚亭は12階の高層ビル

 能登渚亭に出会ったのは1982年3月。金沢市に新聞記者3年生として赴任した直後です。もう43年前。昔話で恐縮です。きっかけは全く無縁の電源開発計画。和倉温泉がある七尾市では大型の火力発電所計画が進んでいました。「明日、七尾湾の漁業補償問題を巡って地元漁協が受け入れるかどうか討議する。取材に行け!」。上司に背中を押され、訳も分からず向かいました。地元の事情をしっかり事前取材したつもりでしたが、呆然とする事態に。能登弁が理解できないのです

 補償金が議題ですから漁協のみなさんの口調はどんどん熱くなり、言葉は槍のようにどんどん尖ります。石川県に赴任して間もない人間にとって能登弁は英語と同じ。ヒアリングできません。今でも不思議ですが、目の前を飛び交うヤジをなかで、なぜか耳に残ったのは「あの加賀屋も・・・」でした。

 取材がひと息ついた頃、地元の方に尋ねました。「加賀屋ってなんですか?」。七尾湾に面した大きなビルを指差します。「あれが加賀屋だよ」。和倉温泉を代表する旅館、加賀屋の能登渚亭でした。旅館といえば、平屋か2階建てのイメージしかありません。「あんなにでかい旅館ってあるのか」。今度は唖然としました。

 数ヶ月後、能登渚亭へ。石川県、そして北陸地方の経済を支える産業は観光です。旅館は多くの観光客を向か入れる役割を担っており、重要な取材先です。という建前はともかく、高級旅館に初めて訪れるのですから気分はウキウキ。

 加賀屋の当主、小田禎彦さんにごあいさつした後、「まずは館内をご覧ください」と招かれ、一周します。館内の空気には独特の香りが漂っています。なんと表現したら良いのかわかりませんが、いつも吸っている空気と違います。1981年6月に完成していますから、施設はまだ1年ぐらい、新品同然。すべてが驚きでした。

 1階は大きなガラスに囲まれ、七尾湾を見渡す絶景が広がっています。能舞台も配置され、もう「ここはどこ?」。エレベーターに乗って客室のフロアに向かうと、ガラス越しに見える30メートルを超える加賀友禅で描かれた花鳥風月の図とともに上昇していきます。ここまで来ると日常生活から完全に非日常の異空間へワープ。

 能登渚亭は旅館の常識を超えた存在でした。規模がすごい。12階建ての高層ビルで、客室180室、収容客数1000人。巨大な旅館です。家族で経営する旅館ではとても賄いきれません。まして仲居さんら多くの従業員を使ったとしても人件費が嵩み、利益はでません。

機械化と仲居さんの寮

 小田さんから旅館経営のイロハを教えていただきました。驚いたのは機械化です。お客さんの目から見えない壁の背後に機械式の配膳システムを設置するなど合理化を徹底しています。旅館といえば、仲居さんが料理などを運ぶ風景がすぐに目が浮かびますが、能登渚亭ではベルトコンベアを利用した機械化で人手を省きます。労働集約の典型の旅館にとって人件費の軽減は収益に直結します。当時の衝撃度を例えれば、旅館業のデジタルトランスフォーメーションです。

 でも、スカイラークなどファミリーレストランと同じ発想で人件費を削減に注力しただけと理解したら、それは勘違い。お客さんと接する仲居さんが働きやすい環境作りに手は抜きません。幼いお子さんも世話する寮を建設しました。仲居さんは朝早く、夜遅くまで働くこともあります。お子さんを安心して預ける体制を整え、優秀な人材を集めたのです。それがお客さんへのおもてなしの水準を高めることに直結します。旅館で最も大事なおもてなしに磨きがかかるのですから、加賀屋の評価も高まります。ハードウエアとソフトウエアのベストミックス!ですね。

 加賀屋は1906年に創業しました。加賀屋の名を高めたのは小田さんのお母様、小田孝さん。孝さんが嫁いだ昭和14年の加賀屋は部屋数20室。和倉温泉でも小さな旅館でした。孝さんは「お客様第一」を徹底し、料理の選定、客のお迎え・お見送り、部屋への挨拶回りすべてに全精力を注ぎ、早朝も深夜も姿を見せるので「化けもの」と呼ばれたと自伝で明かしいます。今でも歴代の女将が継承していますが、旅館を離れる時に客の姿が見えなくなるまで頭を下げ続ける女将・孝さんの風景は、旅館・加賀屋のアイデンティンティともいえるものでした。

 日本でも特筆できる「おもてなし」と豪華な巨大施設が日本一の旅館としての加賀屋を支えました。しかし、2024年1月1日の能登半島地震で大きな被害を受け、経営は根底から覆されました。

日本の旅館の進化に貢献を

 2025年1月、小田禎彦さんから経営を任された渡辺崇嗣社長は日本経済新聞社のインタビューで「和倉温泉への一極集中型もどうかと思っている」と答え、全国各地への進出や事業の多角化を進める方針を明らかにしています。後継者不足に直面する旅館からの運営受託などを念頭に考えているようです。星野リゾートなどが全国展開している手法を参考にしているのでしょう。

 能登渚亭で証明した旅館経営の可能性を全国でどう展開するのか。世界に冠たる「おもてなし」を活かしながら、多数の海外観光客をいかに出迎え、満足してもらうのか。加賀屋はすでに証明しています。新たな加賀屋が日本の旅館をどう進化させるのか。とても楽しみです。

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