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豊田喜一郎 電氣自動車を試作 父佐吉の思いを継ぎ、挑戦するトヨタの魂

 アマゾンの読書サービス「キンドル」で読書履歴を探していたら、豊田喜一郎さんの著作が突然、画面に現れました。書名は「トヨタ電氣自動車試作ー副社長豊田喜一郎氏抱負を語るー」。「From to ZERO」でトヨタ自動車のことを多く書いてきたせいか、「創業者の声をしっかり聴け」とばかりに目の前に蘇ったようでした。

キンドルから喜一郎さんの語りが

 「トヨタ電氣自動車試作ー副社長豊田喜一郎氏抱負を語る」。「豊田喜一郎文書集成」(名古屋大学出版会)をもとにボランティアのみなさんがインターネットの図書館の青空文庫で制作し、再現しました。初めて世に出たのは、1939年(昭和14年)に発行された「モーター」11月号です。(以下、敬称を略させていただきます)

今回當社は帝國発明協會から蓄電池製作の權利を譲り受け、蓄電池製作を開始すると同時に、全然新しい設備によるモーター及びシャシーの製作を開始いたしました。(中略)現在の非常時局に際しガソリン節約の點からも多少なりとも實用化し得ると思ひます。(中略)或る程度の犠牲を覺悟の上蓄電池自動車の製作に着手しましたが、製品は来春発表の豫定であります。

 喜一郎は、「抱負」を語るなかで失敗を恐れず挑戦する志が電気自動車の成功に導く覚悟を披露しています。当時のトヨタ自動車工業はディーゼルエンジンの製作にも成功し、開発力に自信を深めていました。太平洋戦争に向かう日本の国情を考えて、石油など資源が乏しい日本の苦境を解決するためには、水力発電から得る電力を蓄え、自動車などに利用する道を開く挑戦を始めていました。

父佐吉の思いを継ぎ、電気自動車に挑戦

 この挑戦には伏線があります。トヨタ自動車75年史によると、喜一郎の父佐吉は1924年に米国陸軍航空隊が世界1周に初めて成功したことに触発され、移動用蓄電池装置の発明を思い立ちます。佐吉はトヨタ自動車を生んだ豊田自動織機製作所の創業者です。翌年の1925年、佐吉は帝国発明協会に50万円の基金を寄付するとともに、協会内に蓄電池を研究する豊田研究室を設けます。1927年から募集を始め、31年、35年と続きますが、開発は困難を極めます。喜一郎は著書で「自動車に採用して経済的になりと認められるものは中々困難でありました」と述べています。

 喜一郎は、父佐吉の思いを継ぎ、1939年に東京・芝浦に蓄電池研究所を新設し、蓄電池の生産を開始します。1940年ごろには蓄電池とモーターを搭載した電気自動車の試作に成功しました。その思いを次のように語ります。

實驗室に於いて實驗的に作っているのでは本當の研究は出来ないので或程度は思い切つて大量に作り實用に供さねばらない然る後に欠点を順次改良して行くべきであります。

豊田喜一郎さんの銅像

 研究開発は多くの壁にぶち当たりますが、見事突破します。

従来の化學者が絶對に不賛成であると云う點を抜山博士が或る理由に基き試驗して見た所、従来のものよりも1割程度輕く、振動に強く而も短時間の大きな放電に良い特性を持つた優秀なものが出来る様になりました。

 電気自動車そのものはその後の歴史が語る通り、自動車の動力源は内燃機関のエンジンが主役の座を占めます。電気自動車が身近になったのはつい最近ですから、いかに車載用蓄電池、今でいうバッテリーの開発が困難だったかがよくわかります。

喜一郎の挑戦を継ぎ、電気自動車で世界へ

 トヨタ自動車は、創業家の豊田章男社長が14年ぶりに交代し、4月に佐藤恒治氏が新社長に就任します。ガソリン車、ハイブリッド車、電気自動車それぞれの開発に注力する方針に変わりはありませんが、欧米や中国で主流になりつつある電気自動車の開発を急ぐ考えを示しています。 

 電気自動車の開発は長い歴史があるとはいえ、ガソリン車の利便性などに取って代わるにはまだまだ克服しなければいけない課題が山積しています。

 トヨタが創業者の喜一郎が身を以て示した挑戦する魂を引き継ぎ、世界に躍り出る日を待っています。

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 豊田喜一郎氏の長男、章一郎氏がお亡くなりました。生前、自動車取材で数え切れないほどお世話になりました。自動車担当を離れた後も、電力産業の担当として当時経団連会長を務める東京電力の平岩外四会長の後任に指名される過程で、取材でお邪魔しました。多くの思い出があります。改めて感謝を申し上げたいと思います。心からご冥福をお祈りします。

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