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VW は南京、日産は追浜、主力工場の閉鎖は自動車産業のガラガラポンの始まり

 日産自動車とドイツのVW(フォルクスワーゲン)が相次いで主力工場を閉鎖します。日産は創業の地である神奈川県の主力工場、追浜工場(横須賀市)を2028年3月末に閉鎖。VWは中国の上海汽車と運営していた南京市の合弁工場を閉鎖しました。日産、VWはGM、フォード、ベンツ、トヨタなどと共に20世紀を「自動車の世紀」として築き上げてきました。これまでも自動車メーカーの再編、あるいは工場のスクラップ&ビルドはあります。しかし、今回の日産とVWは違います。自動車産業のガラガラポンの始まりを告げているのです。

VWの南京工場は中国躍進の原動力

 日産の追浜工場、VWの南京工場は数多い工場の一つではありません。自動車生産する基本的な技術とノウハウを生み出すマザー工場です。追浜工場は1961年から操業を開始、日産の代名詞ともなった乗用車「ブルバード」を生産しました。地元の神奈川県にある中央研究所、日産系列の部品メーカーと共に新型車の開発、量産化に向けて試行錯誤を繰り返し、その成果を国内外の工場に伝承する役割を担ってきたのです。今では年間24万台の生産能力を備えています。

 日産が世界に先駆けて量産化に挑んだEV「リーフ」も追浜工場で生産しました。「技術の日産」の名の通り、日産は1970年代から素晴らしい新車を発表してきました。トヨタに比べて見劣りしていたのは販売力だけ。

 忘れていました経営者も力不足でした。追浜工場でせっかく築き上げた生産技術を活かして経営再建の道筋を描くことができなかったのですから。その末路が追浜工場の閉鎖に行き着く。従業員の皆さんは無念でしょう。

 VWの南京工場も同じです。中国の国有企業、上海汽車との合弁によって年間36万台の生産能力まで拡大、VWを2010年代に世界一の自動車メーカーの座まで押し上げる原動力でした。中国で成功を収めたシンボルでもありました。

 1980年代、まだ世界の自動車メーカーが中国での現地生産に腰が引けていた頃、VWは上海で乗用車の生産を開始。当時、生産ラインなどは整備されておらず、人力で組み立てラインを押して1台、1台仕上げていたと聞いたことがあります。中国政府の産業政策によって国有企業の上海汽車集団と合弁会社を設立した後、上海と南京に工場を構え、本格生産に移行します。

 VWの市場シェアが中国経済の発展に比例して拡大するのは当然でした。中国市場は米国を抜き世界最大の自動車市場にまで成長しましたが、VWとアウディは頭抜けた人気ブランドとして販売を伸ばし、VWにとって世界販売の3割を占めるほど大きな存在となりました。

 その南京工場が閉鎖されるのですから、VWが日産と同様、窮地に追い込まれている現状を察してください。

新陳代謝が始まった

 追浜工場と南京工場の閉鎖は偶然ではありません。日産もVWもエンジン車で世界有数の自動車メーカーとなりましたが、両社ともエンジン車の次代市場である電気自動車(EV)への移行にも力を入れました。決して経営戦略が稚拙だったわけではありません。

 ただ、日産はEV量産に成功したものの、販売は不発。VWは中国政府が中国製EV育成に政策転換したことでエンジン車の販売が急落。EVに力を入れても、厚い補助金に支えられた中国製EVの攻勢に打ちのめされるしかありませんでした。失礼ながら、中国の自動車政策に大きく貢献しながら、「もうお役御免」とばかりに切り捨てられた印象です。

 日産とVWはまるで二重写し。日産は追浜も含め国内外7工場の閉鎖を計画していますが、VWは創業以来初めて独国内の工場閉鎖も検討しています。両社ともエンジン車からEVへの乗り換えに失敗したというよりも、欧米や日本が支配した世界の自動車市場が終わり、中国やアジアなど新興勢が台頭する新陳代謝の波に飲み込まれたとみるのが正解ではないでしょうか。

 40年以上も前の1980年代、「生き残るのはGM、ベンツ、トヨタの3社だけ」という新聞コラムを掲載したことがあります。その時は多くの批判と賛同が寄せられましたが、今から振り返ると、間違っていました。GMもベンツもトヨタも生き残るかどうかわかりません。ガラガラポンと鳴った後、どんな自動車メーカーがそこにあるのか。テスラなのか、BYDなのか。いや、どちらも消えているかもしれません。そんな混沌が待ち受けているのです。

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