日立はなぜ東芝の道を歩まなかったのか ? 過去を否定できた会社が生き残る
東芝がますます経営の足元が覚束なくなってきました。本体の3分割案を発表してから3ヶ月後、今度は2分割案に修正します。そんな東芝を見ていると、総合電機御三家と呼ばれた日立製作所はなぜ東芝と同じ道を歩まなかったのか?。こんな素朴な疑問を誰もが持つはずです。東芝はお公家、日立は野武士、世評でよく言われたキャッチフレーズです。こんな理由では納得できないはずです。この30年間取材を通じて、東芝と日立を眺めてきた経験で言えば、その答えは社長の選び方の一言で尽きると思います。
東芝の社長については歴代社長の視点から以前に掲載済みの記事で触れました。ここでは日立の社長について書き込みします。私が日立をよく取材した当時の社長は金井務さんでした。もう先入観も含めてイメージ通りの日立の顔でした。胸の内は明かさない、余分な説明、雑談はしない、やろうとしていることは見ていればわかる。言い換えれば、取材に対する質疑応答では、適切な量と質で受け答えする方でした。もっとも取材する側にとっては適切な量と質でない場合がありましたが・・・。
先代で6代目社長である三田勝茂さんはさらに日立の神髄を体現した方でした。日立とはなんぞやとの話になった時、発祥の地である茨城県日立市で鉱山用発電のモーターを開発した例を挙げます。「どんなことがあっても故障せず、信頼される製品を開発するのが日立」と力説されていました。当時、日立製の洗濯機はドンガラが壊れてもモーターだけは回り続ける、といった伝説があったほどです。三田さんが誇らしげに語るのも納得できます。ただ、新聞記者そのものを、あるいは私自身の取材力・経験を信頼していなかったことがあったのか、言葉の端には絶対に本音は漏らさないという意思を感じられました。今でも反省しています。
社長の選び方は会社の未来も決める
その日立は重電のみなら家電、パソコン(作っていたんですよ、今持っていたらとっても貴重品でした)などを手掛ける東芝、三菱電機の総合電機3社の一角として君臨していました。しかし、日立は東芝、三菱と同様に1990年代に入って総合電機メーカーの宿痾ともいえる家電やパソコンなど消費者向けの市場で大苦戦しています。もがき苦しむという表現が適切かと思うぐらいでした。金井さんの後継社長は誰かという憶測の中、大胆な経営改革を実行するには日立家電社長を経験した庄山悦彦さんはどうかという声がありました。しかし日立の本流は重電です。家電のような軽い電化製品の市場は日立にとって取るに足らないもの。日本の産業を支え続けてきた「栄華を誇る昭和」を忘れられない意見が根強くあります。一方、野武士と呼ばれながら実態はお殿様の日立の体質を変えるには、やはり庄山さんのように消費者の声を実際に聞いた経験が不可欠との声は消えません。
1999年、庄山さんは金井さんの後継社長に就任しました。残念ながら、あまりにも日立の歴史が重かったのでしょう。経営改革という重責を双肩に臨みましたが、日立社内に大胆な改革を受け入れるほどの危機感はありませんでした。結局、期待とは裏腹に経営改革は不発に終わり、業績回復の道は開けません。
経営改革の突破口を切り開いたのは7代目社長の庄山さんから数えて2代目の後継社長、川村隆社長でした。10年の年月が経過していました。川村さんは日立副社長を務めた後2003年に退任し、日立ソフトウエア、日立プラント、日立マクセルの会長に就任しました。会社人事をご存知の方はすぐに察すると思いますが、もう日立本体には戻らない人事です。偶然、当時の川村さんの仕事を振りを知る機会がありましたが、日立プラントなどでの社風の改革、要するには「日立の子会社だからといって安閑としていられない。将来の水資源不足など地球環境問題を考えて事業改革、市場開発しなければいけない」と子会社の会長でありながら社内を鼓舞する姿を知りました。
日立本体を離れたからといってブラブラと時間を潰しているなんて姿じゃありません。「日立を変えられる経営者ってここにいるんだなあ」と驚いたものでした。そして日立は2009年3月期に7000億円という製造業としては過去最大の赤字を計上する経営危機に直面します。
川村、中西両社長時代に思い切った決断を下す
生き残りへの答えは川村氏の社長就任、次の社長を務めた中西宏明氏らの日立本体への復帰でした。川村社長は家電撤退など大胆な経営改革を断行し、3年後の2013年3月期に過去最高益を計上するまでに日立を立ち直します。経営とは何か、会社を改革する力とは何か、社員の力を引き出す力とは何かーー組織を変える原動力をどう引き出すかを知る経営者が社長に就任すればすぐには舵を切れない巨艦と言われた日立ですら変えることができることを示しました。
直近の東芝歴代社長の哀れな姿と比べてください。嫉妬や裏切りを恐れて自分の地位を守ってくれるイエスマンを後任に指名したはずが、自身が選んだ後継社長に裏切られてしまい、その怒りに任せて従業員や会社の未来のことなどを考えもせず自らの権威の死守に走る。日立と東芝は同じ三叉路に立ちましたが、選んだ道は異なりました。
この選択の差は会社の歴史、従業員、その家族そして日本にとって取り返しがつかない不幸として、あるいは幸福として現れます。英CVCの買収提案によって何度目かの東芝再生の失敗は、車谷社長の浅慮というだけでなく日立が捨てることができたものを東芝は捨てきれなかったものを映し出します。西室社長時代、「選択と集中」を掲げて事業改革しました。その時、「選択」したものは何だったのか。イエスマンの社長を選ぶだけでした。東芝の社長選びは、とてつもない大事なものを失ったことを教えてくれます。