1980年、日本経済新聞社編集局へ入社。新人時代は当時暗黒大陸と言われた流通業を担当することになり、問屋さんや外食産業を多く取材しました。マクドナルドの藤田田さんやロイヤルの江頭匡一さん、ドトールコーヒーの鳥羽博道さんら日本の飲食業を築いた経営者に多くを学びました。牛丼チェーンの吉野家が倒産した頃でした。阪南畜産の浅田満さん、日本ハムの大社義規さんらから牛肉の世界を教えてもらえる貴重な経験も得ました。教科書の世界に綴じ込まれていた経済が生きた血を流しながら、融通無碍に変わっていく様を体感するとともに、テレビや新聞ではあまりお目にかかえれない強烈な個性に衝撃を受けました。
2年間の新人修行の後、金沢に移り住み、北陸を中心に観光と原子力発電所という両極端なテーマを追いかけます。北海道で育った私にとって「日本」がぎゅっと押し詰められた金沢の文化や習慣は、異国に住むのと同じでした。1年間は日本語ができる”外人”として生活しましたが、「金沢」「北陸」をようやく理解できるようになり、初めて「日本」「Japan」を知ることができたと思います。今でも最大の自慢は金沢3年目に町内会の役員に選ばれたことです。前田利家とともに移住した板前さんの子孫がもう400年間も住む町に一人前として認められた証でした。その後の記者生活の基礎を鍛えていただいたと感謝しています。
東京本社に人事異動してから自動車、エネルギー、運輸、エレクトロニクスなどを軸に取材経験を増やしてシドニー駐在となりました。アジア太平洋の自由貿易圏構想のAPECを現地で取材するとともに、自分一人で何ができるかを試してみたかったこともあります。東京本社勤務になってからは、デスクや部長、編集局次長などを経験。新聞が出来上がるまでの過程を自分なりに習得したつもりです。金沢、広島、大阪、地元の北海道などに短期間ですが赴任し、日本列島の広さと狭さを体得したつもりです。
この10年間は日経グループのテレビや映像制作の会社社長も経験しています。大学時代、新聞研究所で「新聞とは何か」「伝えることとは何か」を勉強したつもりです。新聞とテレビ、ネット映像それぞれのメディアから学んだことをこのサイトで活かし、「伝えること」の可能性を広げる挑戦を続けていきます。