最高裁「国の責任認めず」、国と電力が作った「原発の安全神話」は誰の責任に

建設や運転の現場に蓄積する知見で新たな安全神話を

 見落としていないけないのは、津波の予見が正しいのか予知不能なのかどうかよりも原発関係者や現場のスタッフは原発が抱える問題点を見抜いていたことです。原発建設に深く関わっている東芝の元技術者が語っていました。福島の事故に直結した原発の電源の場所をどこに置くのか。福島第一原発は米国のGEが主設計ですが、工事は日本の企業が関わっています。GEは米国の原発はハリケーンに襲われる可能性が高いため、原発の電源を地上の低い位置に設計しました。東芝の現場は日本の場合は津波に襲われる可能性を考え、電源は地上より高い位置に設計しようと提案しました。GEは「安全性の工事責任を負うのか」と反論して、却下したそうです。

 もう40年も前に福島第一・第二原発を取材した時も同様な経験をしました。制御電源が停止した場合、原発を守る防御は機能しなくなります。「電源が停止した場合を想定しないのか」と聞きましたが、「電力会社は電力を作っているのだから、停電はありえない」。それでも津波や自然災害に備えて予備電源はあった方が良いのではと問いましたが、「今の安全策で十分」と安全神話に基づく説明を続けます。もし停電したらどうするのかと問い直すと、「格納容器への海水注入です。機器は海水で使えなくなり、原発は終わりますが」と答えてくれました。説明する彼は新たな安全策は必要とわかっていたのですが、対外的な公式説明を続けるしかなかったのです。

 原発建設、あるいは運転する現場に従事するスタッフは毎日、原発に触り監視するなかで何が必要かを考えています。あらゆる場合を想定して、今やるべきこと、将来でも良いことを知っています。津波の予見はその一部に過ぎません。国と電力会社が守り続けた安全神話は東日本大震災による事故発生、そして海水注入で消滅しました。しかし、現場に蓄積された知見は今もその重要性が変わりません。原発に神話が不要です。必要なのは、現場から提案される安全策を議論し、実行できる組織への進化です。

過去の安全神話は海水注入で終わりを告げたが、国は「安全」のまま

 福島第一原発の事故に対する国の責任は裁判所で「無し」と判断されましたが、原発の安全基準を改善する責任は原発再稼働を掲げるかぎり、国にあります。再稼働後に事故が発生したら、今度は安全基準を設定した原子力規制委員会の責任になるのでしょうか。原発の安全神話は今でも国に対しては守られているようです。

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