27年前の軍事演習が蘇る1 南沙諸島と欧州大陸の侵攻 自衛隊取り込みの狙いも
もともと安全保障には関心がありました。1990年の湾岸戦争時は石油担当していたこともあって日本の防衛産業や自衛隊などの取材を通じて軍事作戦の考え方などに触れ、普段は目にすることがない世界を垣間見たこともあります。さらに育った函館市が北洋基地だったこともあり、補給で訪れた米海軍の航空母艦「エンタープライズ」や「ホーネット」に乗船するチャンスに恵まれ、艦上の航空機や設備、空母内の巨大なエレベータや作戦室、食堂などを実際に目にする経験もありました。最新の軍事力の現場を見たいと考えるのは自然の流れでした。
兵士らは演習中に取材を受けることも
自衛隊が将来、参加するための下地も目的に
そして最も大きいのはオーストラリア軍幹部の一言でした。「日本の自衛隊をいつか多国籍軍の一員として迎える下地を整えたいのだ」。日本の自衛隊は憲法上、戦争は禁じられています。1991年の湾岸戦争でペルシャ湾へ機雷掃海部隊が派遣され、活動範囲は徐々に広まっていましたが、当時はまだ海外の軍事演習に正式参加するのは無理でした。
当然ですが、私自身はこれまで本格的な軍事演習を経験したことはありません。今回の演習を通じて米軍やインドネシア軍など多国籍軍の連携活動を間近に観察できますし、参加する兵士や将校らと自衛隊の活動も含めて話ができるチャンスでした。
不安はありました。演習とはいえ普段の取材活動と全く環境が違います。「英語が多少通じなくても大丈夫」といった甘い気持ちでは大怪我してしまう恐れがあります。しかし、オーストラリア大陸の北半分を舞台に多国籍軍を追いかける取材を諦めるわけにはいきません。身体検査と顔や体の写真を撮影された後、「万が一、命を落としても自己責任であると認める」との書類にサインしました。顔写真は万が一の時に識別する際に必要で、念のため認識標も”プレゼント”されました。
軍事演習の同行取材が始まりです。1週間以上、ある部隊と共に過ごします。装備も一丁前です。兵士ではないのでまるっきり同じではないのですが、鉄製のヘルメット、上半身を守る厚手の防弾チョッキ、緊急時の食糧などが詰め込まれたバッグや分厚い帯のような腰バンドを装着すると、さすがに体中に緊張感が走りました。