人間は考える葦、新聞記者は考える足、AIとの勝ち負けは「無し」でしょ!

 高校3年生の時、登校しない日々が続きました。学校の勉強がつまらなく、歴史やアイザック・アシモフなどの科学といった好きな分野の書籍を読んでいる方が楽しかった。一丁前に「人生とは何か」と悩んだりしました。夜中、ぶつぶつ話し続けている時もありましたから、うつ状態だったかもしれません。

高校生の頃、「考える葦」に救われる

 その時に出会ったのが「人間は考える葦」。パスカルの有名な言葉です。文庫本「パンセ」を読んでいたら、宇宙は人間なんて簡単に消し去るほどの力を持っており、人間は細く弱い葦のよう。でも、人間は宇宙を認識できる力を持っている。それは「考える力」があるからだ、と。なんか救われました。考える範囲は無限。人それぞれ発想も考えた後の結論も違います。

 「俺って、俺なんだ」。他人にどう思われようが、もっと映画やジャズやブルーズを見て聴こう。朝、自宅を出ても高校に向かわず、パチンコ店や好きな曲が聴ける喫茶店「ぽん」に迷わず通う日々に。足取りは自信満々。高校の先生に偶然、出会っても「おはようございます」と挨拶できました。

 最近、ChatGPTが話題です。G7のデジタル担当相会議でも「人間尊重など共通の価値観に基づくルール作り」に合意したそうですが、思わず首を傾げます。デジタルって今まで人権無視していたんだっけ。記者会見する大臣らが教科書を棒読みしていた高校の先生の姿と重なります。

ChatGPTは占い師と同じ?

 ChatGPTは問いかけに対し、人間のように賢く語り、アドバイスくれるそうです。問題はその過程が不明のまま。検索したコンテンツの著作権も問題になります。産業革命以来、人間はより便利で使い勝手の良いマシーンが手にしてきました。これまでの恩恵が地球温暖化を招く主因となっているのはなんとも皮肉ですが、誰しも指1本で楽チンできるなら、使うでしょう。

 ただ、あくまでも辞典と同じ。旺文社の英語単語集の「赤い豆単」を思い出します。それとも占い師かな?不安になった時、占い師の前で椅子に座る人が「あなたは今、悩んでいますね」といわれ、「私のことをわかってくれている」と感動するのとどう違うのでしょう。

わからないことをわからないと訊ねる難しい

 現役の新聞記者時代、取材中にいつも痛感するのは「わからないことをわからない」と再度訊ねることの難しさ。どうしても頭が良いフリをしたがるせいか、取材先の説明を理解したフリをしてしまいます。鵜呑みにして記事を書こうとしても、わかっていないので記事は書けません。高校の先生と同じ棒読みのような記事が出来上がるだけです。

 疑問を感じたら、再度質問する。それでも理解できないなら、取材先を増やして必要な知識と事実を集める。「営業は足で稼ぐ」といわれますが、新聞記者も同じ。「足で考える」のです。どうしようもない記者でしたが、足で考え、新たな事実を発見したつもりです。ひ弱な葦は考えることで宇宙と対峙できますが、新聞記者はひ弱な頭を足で補い、考えるのです。

人間が叶わないのは24時間眠らない考えること

 人工知能が人間を脅かすと言われ続けています。人工知能は学習機能を鍛え、そこから学んだことを繰り返し検証し続けて思考を重ねる仕組みです。人間と違って24時間休まずに考えることができるので、思考スピードが半端ない。敵いません。でも、考えることはスピードで優劣が決まるわけではありません。着眼点は人間も人工知能も差がありません。

 ChatGPTを闇雲に恐れることも、勝負を決することもありません。疑問を感じたら、考えましょう。それでも答えを見つけられなかったら、外を歩き回りしょう。人工知能には足があるのかな。パチンコ店に行って軍艦マーチを聴きながら、金属ボールの行方を追っていると思考はゼロに。なぜか良いアイデアが浮かぶものです。

考えることをAIと一緒に楽しみましょう

 考えることが宿命として設計されている人工知能にこんな芸当はできないでしょう。人間を追い抜くとか神に迫るとかの意見もありますが、空疎に映ります。それこそ考えることが無駄に思えてなりません。将棋の藤井聡太さんはすでに人工知能でも想定できない最善手を打って勝っています。

 大学の論文試験などで人工知能を使い方で不安が広がっているそうですが、大学の先生は学生に「考えることの楽しさ」を思い出させてほしいです。葦でも足でもなんでも使って、人工知能と一緒に考えましょう。楽しいことが世の中にはいっぱいあります。

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