遣米使節とシリコンバレー起業家派遣 160年過ぎても学べない
福澤諭吉、勝海舟、ジョン万次郎らのモノクロ写真が蘇りました。
萩生田光一経済産業相は2022年7月末、米国西海岸のシリコンバレーを訪れた際、5年間で1000人を派遣する構想を明らかにしました。沈滞する日本経済に活力を取り戻すため、起業家を増やすスタートアップ事業を拡充するのが狙いです。なんとか日本経済の活路を切り拓きたいとの意欲はわかりますが、やはり呆気(あっけ)に取られます。日本企業はもうシリコンバレー出身の企業や投資家と長く深い関係を構築しています。それを160年以上も昔の幕末にまで時計の針を戻す施策が現代の日本経済を活性化するアイデアとして飛び出すとは!
選りすぐりの1000人を5年計画で派遣
まずは萩生田経産相の構想を簡単にみてみます。シリコンバレーに人材を派遣する施策は2015年、当時の安倍首相が当地を訪問した際に推進を決めました。以来、年間20人規模で派遣したようですが、年間200人に拡大、5年計画で1000人送り込む考えです。マスメディアによると、萩生田経産相は「えりすぐりの挑戦者をシリコンバレーに派遣するプロジェクトを抜本的に拡充する」と意気込んでおり、「日本のスタートアップをめぐる景色も一変するはずだ」とも強調したそうです。また「安倍氏がまいた種にしっかり水をあげて芽を大きくしたい」と話していますから、安倍首相の側近の1人として政策継承し、自らの存在感をアピールする狙いも込めているようです。
シリコンバレーに派遣された人材は現地で何をするのでしょうか。起業家や大企業の新規事業担当者などは1週間ほど滞在して、シリコンバレーのベンチャーキャピタリストや現地の経営者らと交流を深めるとともに、自ら考案した新規事業の計画を提案して投資などを募るそうです。
萩生田経産相は米国スタートアップの拠点でもあるスタンフォード大学、世界のITを牛耳るGAFAの一角を担うグーグルなどを訪問して意見交換したと伝えられ、テレビニュースでも放映されていました。画面はもちろん鮮明なカラー映像が送り届けられていましたが、福澤諭吉の「西洋事情」に掲載された白黒の口絵を見ている思いでした。
1980年代にはすでに日本と深い絆
私が初めてシリコーンバレーを訪れたのは1980年代後半です。スタンフォード大学、ヒューレット・パッカードを母体に最先端技術を持つベンチャー企業が数多く輩出し、日本の電機、半導体各社も現地に拠点を構え、多くの人材が現地で技術や情報、事業化について学んでいました。その成果は今では信じられないですが、1990年代初めには日本の半導体メーカーが世界シェアの過半を握る技術力を誇るまでに至りました。10数年の歳月で世界トップに上り詰めた努力は驚きでしかありません。
その後も日本企業のシリコンバレー詣では止まりません。ちょっと驚いたのは三菱地所がベンチャー企業を生むノウハウを知るために訪れていたことです。シリコンバレーの中心地であるパロアルトには、このビルに入居すると世界企業に翔び立つという都市伝説を持つ不動産物件がありました。貸主が若い経営者の可能性を見る目が優れているというのです。私が2012年にパロアルトを訪問した時は、そのビルにはネットで音楽の曲名を検索するShazamが入居していましたから、その都市伝説は真実でした。三菱地所の担当者は参考にして良いのどうか迷っていたみたいです。
日本企業が長い歳月をかけて築き上げたシリコンバレーとの絆は、すでに太く力強いものです。日本経済再生のカギの一つとして注目するベンチャー育成、今流行の言葉で例えればスタートアップが増えていない理由は、シリコンバレーの派遣人数に左右されるものではありません。問題は日本国内にあるのです。
風景を一変させるのはむしろ日本の意識と改革
シリコンバレーを取材する記者が解説してくれました。パロアルトなどのホテルのロビーカフェを見ると、若者がベンチャーキャピタリストに熱心に説明する風景を見かけることがあるそうです。「成功すれば、日本円で数億円規模の投資が即決するんですから、日本では考えられないですよね」と苦笑していました。
仮にです。これからシリコンバレーに派遣する候補者が日本のベンチャーキャピタルで事業提案したら、どういう結果が出るのでしょうか。あるいは経済政策として後押ししているのですから、政府系金融機関を訪れて、新規融資を提案したら、どういう反応があるんでしょうか。それとも大企業で新規事業を発案した若手社員はどう人事考課をされるのか。残念ながら、即決で「ハイ、3億円を君に託すよ」となるとは思えません。
萩生田経産相が期待する「日本のスタートアップをめぐる景色も一変するはずだ」を実現するためには、日本自らの意識改革が先決です。自ら改革できずにシリコンバレーから帰国した優秀な人材に「シリコンバレーでは通用しないよ」と言わせても、「日本では通用しないよ」とあしらわれるだけです。
ウェブスター辞書を買うか、こうもり傘を買うのか
万延元年遣米使節について大宅壮一さんが「炎が流れる」で今でも肝に銘じなければいけないエピソードを描いています。使節団の一行のうち福沢諭吉と通訳の中浜万次郎の2人だけがウェブスター辞書を買った。ちなみに中浜万次郎、いわゆるジョン万次郎はミシンとカメラも買ったそうです。これに対して咸臨丸の提督を務めた木村摂津守はこうもり傘を買いました。文明の利器と映ったそうです。ところが日本に帰っても、「こうもり傘を持って歩いたら浪人に切られるだけ」と福沢諭吉は呆れたそうです。
万延元年は1860年。それから162年過ぎました。シリコンバレー1000人派遣を表明した萩生田経産相が木村摂津守に見えるのは私だけでしょうか。福沢諭吉や中浜万次郎が学んだことが明治以降の日本を支えたのは間違いありません。しかし、160年という長い年月を経ながらも、米国の起業家精神を学べない事実は自らの反省も含めとても残念です。