アフリカ土産物語(14) マンデラ追想 ヒュー・マセケラのサウンド

 アメリカに亡命してジャズのトランペット奏者として活躍したヒュー・マセケラ(1939-2018)は類まれなる知性の持ち主だった。ネルソン・マンデラ元大統領や著名なミュージシャンとの親交を語る話は実に興味深かったが、とりわけアパルトヘイト(人種隔離)の本質的な怖さを「文化的アイデンテティの喪失」と訴えていたことが印象深い。

インタビューを受けるヒュー・マセケラさん

ピアノの上にルイ・アームストロングから贈られたトランペット

 2001年6月、インタビューしたのはヨハネスブルク郊外の草原を見渡せる自宅だった。応接間のグランドピアノの上に古いトランペットが飾られていた。マセケラは「少年時代にルイ・アームストロングから贈られた楽器だよ」とうれしそうに教えてくれた。

ルイ・アームストロングから贈られたトランペットを手に喜ぶ少年時代のマセケラさん(著書「STILL grazing」より)

 14歳のとき、宣教活動をしていた聖職者が呼びかけたバンドに参加した。その聖職者はアパルトヘイトで追放され、米国で南アの少年たちの様子をジャズの巨人に語ったところ、楽器を南アに届けるよう託され、それがマセケラ少年に渡ったのだ。

 米国で奨学金を得てマンハッタン音楽院で学んだマセケラは1968年の楽曲「グレイジング・イン・ザ・グラス」が全米第1位のヒットを記録。ジャズの枠にとらわれず、幅広いジャンルのミュージシャンと共演し、91年のアパルトヘイト撤廃後に帰国した。

 マンデラの妻だったウィニー・マンデラとは両親を含め家族ぐるみの付き合いがあった。マンデラが釈放された1990年、亡命先のザンビアにいた姉のバーバラはマンデラの秘書官になり、彼が大統領になるとフランス大使になった。

ソウェトで演奏するヒュー・マセケラさん(2001年)

 マンデラの釈放を求める「Bring Him Back Home」という曲がある。きっかけは1983年4月、獄中の本人から届いた誕生日カードだったという。「私が隣国ボツワナで学校を始めたことも知っていて、『頑張って仕事を続けなさい』と励ましてくれたんだ。感動のあまり、すぐにピアノに向かって歌ったよ。『マンデラ、帰ってきて!』とね」

「Bring Him Back Home」(Nelson Mandela)は次のアドレスで体感してください。

https://www.youtube.com/watch?v=NG3oKb2JQow

 

 

 

コンサートはポール・サイモンが1987年、ジンバブエで開催した「Graceland-The Africa Concert」からの動画です。

アパルトヘイトは民族の文化を奪った

 アパルトヘイトを「我々から人間の大切な要素を奪おうとした」と語った。南アにはさまざまな文化が豊富にあったが、法律で人種別に分けられたことで、それぞれの民族が自分たちの文化を見せようとしなくなったという。

 さらに彼は鋭く指摘した。

 「子どものころには毎週末、ズールーやコサなど各民族が歌やダンス、ドラム演奏を披露していた。今はもうドラムを聞けない。我々は一体、何者なのか。破壊されたのはそこなんだ。アパルトヘイトに滅ぼされた文化を取り戻すことが緊急の課題だ」

日本公演に吉田ルイ子さんが「感動」とメール

 「プライドと自信を取り戻し、文化を含め人間性を表現できれば、アイデンティティが生まれる」。そう語るマセケラは2003年春、日本のステージでゲスト出演した。その様子を旧知の写真家の石田昌隆さん、吉田ルイ子さんが「感動した」とメールしてきた。

日本で再会を喜ぶヒュー・マセケラさん。吉田ルイ子さん(左)と筆者(右)

 そのあと空港のCDショップで偶然会った本人に「日本では好評だったそうですね」と声をかけると、「誰か招いてくれたら、また行きたいね」と言った。かつて彼は「白人政権との関係を続けた日本を批判してきたせいか、日本から呼ばれない」と話していたのだ。

 2005年夏、リーダーとして初めての日本公演が実現した。駆けつけると、「懐かしい友よ」とCDにサインしてくれた。アフリカの魂を伝える力強いサウンドを忘れない。(城島徹)

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マンデラ追想は今回で終了。アフリカ土産物語はまだまだ続きます。

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