「あまちゃん」に諭されるメディアの魅力 当たり前を伝え、驚き、感動する

 NHKの朝ドラ「あまちゃん」の再放送にハマっています。2013年の放送時は、会社勤務の内容が新聞からテレビに移り、仕事目線で朝ドラを眺めていたせいか、楽しめませんでしたが、「会社」からすっかり離れた今は視聴者として笑いころげる毎日です。脚本家の宮藤官九郎の術中にハマりながら、ふと気づきました。「メディアが忘れちゃいけない魅力」とは何か。テレビ画面を通して諭されているのでは?。(今回は敬称を省略させていただきます。ごめんなさい)

素晴らしい才能が消える、もったいない

 能年玲奈(今は、のん)。主人公を演じていますが、目の輝きにいつも惹きつけられます。オーディションで選ばれたこともあって2013年にテレビで視聴した時は「演技、頑張っているなあ」という印象でしたが、全くの勘違いでした。再放送で改めて視聴すると顔の表情はとても豊か。目、ほほ、体すべての動きもメリハリが効き、体全体から発するエネルギーを感じます。宮本信子、小泉今日子らを相手に間合いも自然。アイドルの相棒となる「ユイ」を演じる橋本愛を完全に食っています。

 若くて将来性を感じる才能を見ているのは、楽しいのですが、どうしてもその後の経緯を思い出してしまい、「テレビの現実」にがっくりします。能年玲奈は「あまちゃん」の成功後、所属事務所との契約問題などで姿を見かけることが減り、名前も「のん」に変更せざるを得ない事態に追い込まれす。今は再び活躍の場を広げているようですから良かったですが、テレビなどで才能が大きく開花する過程を見逃したくなかったです。

開花を見逃す、もったいない

 「SMAP」独立を巡るジャニーズ事務所との確執などとも被ってしまうため、テレビ業界とタレント事務所の関係など傍目ではわからない世界が残念に思えます。SMAP独立で大騒動が繰り広げられている時、大手テレビ系制作会社の社長は「ジャニーズは次の若手が育っているからねえ〜」と早々とSMAPから若手へ切り替える制作現場の空気を教えてくれました。スターを抱える大手事務所との関係は、テレビの視聴率に直結します。制作現場の目線は、視聴者やファンの目線と違うのが当たり前と考えるべきなのでしょうか。

 でも、素晴らしい才能が大手事務所などとの駆け引きで消えてしまうのは、とにかく「もったいない」。自ら制作する番組やコンテンツに輝きを加える俳優、才能としてのタレントを見逃すのは、視聴者としてはもちろん、テレビや映画など映像制作の現場にとっても悔しいでしょう。世界のコンテンツ制作で韓国に引き離され、地盤沈下する日本で素晴らしい才能を見落とす余裕などないはずですから。

身近の当たり前を見落とす、もったいない

 見逃すといえば「琥珀」と「久慈」も同じです。中高生の頃、「あまちゃん」の舞台となった三陸沿岸の街で過ごしました。「琥珀」や「久慈」はとても身近。というか身近すぎて琥珀は当たり前すぎて宝石どころか珍しい石でした。家にいつくもありました。アマちゃんの番組冒頭でテーマソングと共に映し出される久慈周辺の川や風景は当たり前すぎて、朝ドラで放映されると違った風景に見えるもんだと思っています。脚本を書いた宮藤官九郎は、番組のロケハンで地元の人が「豊富なネタと感じることを地元に人は当たり前だ思っている感覚がいい」と話したそうですが、まさにその通り。日常生活で見逃していることの多さを思い知ります。

わかりにくさを楽しまない、もったいない

 脚本のネタの仕込みにも脱帽しています。物語の流れを説明し過ぎない。むしろ、わかる人にはわかるネタをあちこちに仕込んで、流れを断ち切る。そのネタや躓きを笑うかどうかは、気づいた人だけ。それはそれで快感。朝ドラとはいえ、ちょっと突き放した遊び感覚が素晴らしい。

 個人的には、ジェームズ・ブラウンのオマージュが大好きでした。黒人のソウルシンガーであるジェームズ・ブラウンはエネルギッシュに歌い、激しく動き回り、観客も彼の熱いソウルに熱狂します。ステージには、シルバーの大きなガウンコートを羽織って登場。中央に立つと、肩から豪快にコートを跳ね飛ばして、劇場内の空気を一気に熱狂に変える。キメのポーズです。歌舞伎の早替わりと同じですね。格好良い!!

 もっとも、朝ドラの視聴者層で果たしてジェームズ・ブラウンを知っている人はどのくらい居たのでしょうか。宮藤官九郎は、みんなが知っているエピソードを積み重ねて誰もが納得する予定調和感をあえて異質なジェームズ・ブラウンを挿入して崩しました。

テレビ・新聞はわかりやすさを最優先

 今後の「あまちゃん」の展開は事実上、初めて視聴する立場なのでボッとしたイメージしか残っていませんが、きっと物語は、視聴者自身が思い描く面白さに応えながらも、時折あえて壊す変調を加えて魅力を醸し出していくのでしょう。

 あえて、わかりにくくする。実は最近のメディアでは難しいことなんです。テレビの制作、新聞の記事で貫く軸は「わかりやすく説明して、理解してもらう」。誰もがわかる内容に仕上げるのが最優先されます。私が現役の記者やデスクの時も、読む気も起こらない経済記事をわかりやすく、しかも漢字の数も少なくして、親しみやすい記事に編集するよう努めました。

 この結果、テレビでは「池上彰」「林修」らゼミナールの先生が説明する番組が増え、新聞も簡素な説明で解説できる大学教授らが歓迎されています。

 「あまちゃん」を視聴していると、わかりにくいのも楽しいことなのだと痛感します。目の前で起こっていることをわかりやすく説明することは大事ですが、視聴者や読者は本当に楽んでいるのか。むしろ、「こんなのわかっているよ」と思われ、新聞やテレビ離れを招いているのではないか。メディアに費やす時間に価値を見出せない。こんな皮肉な結果を生んでいるのではないか。言い換えれば、自分自身で考え、次に何が起こるのかを楽しむ手段と瞬間を奪っているように思えます。

メディアが自らを過信、「あまちゃん」に

 「あまちゃん」は素晴らしい才能が目の前にあるにもかかわらず、旧来のしがらみに囚われて活かすチャンスを失った「もったいなさ」を教えてくれます。そして、予定調和に満足しがちな日常生活が、実は見逃していることが多く、それに気づいた時の快感を忘れたら「もったいない」ということも教えてくれています。最後はメディアが自身の力を過信すると、その名の通り「あまちゃん」になってしまうぞと諭しているようです。

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