阿佐ヶ谷の屋台、栃木屋から見た風景(その5) 金露は永遠
久しぶりに阿佐ヶ谷駅前の屋台・栃木屋に戻ります。飲めるお酒は日本酒とビールだけ、だったと思います。日本酒の銘柄は「金露」。この金露が私の酒人生のビッグバンに相当します。金露で覚えた酒の飲み方、二日酔いの苦しさが思いがけない出会いと失敗を経験させてくれ、どんどん人生を広げ、豊かにしてくれました。しかし、何度辛い目にあっても何も学ぶことができない。楽しい思い出、思い出したくもない思い出がまるで天の川に広がる星の数ほど散乱し、酔っぱらった目には夜空の天の川が吐瀉物の跡のように映る時も。「室内でウッと吐いちゃうと、きれいに掃除して臭いを消すのが大変なんだよなあ」
屋台での飲み方はコップ酒。ビールのブランドが印刷されたガラス製より肉厚のコップです。燗酒を注ぐと程よい熱さがコップを持つ指に伝わり、唇にあたる感触も優しくて飲みやすい。学生時代はほぼ毎夜午後10時ごろ、阿佐ヶ谷駅北口が真っ正面に見える屋台の長椅子に座り、お酒を頼ます。屋台の親父は一升瓶の首を太い指でガッチリと握り締め、真鍮製のちろりに酒を注ぎます。ちろりはおでんが隙間なく出汁に浸っているホーロー製の四角い鍋にポトンと置かれます。燗の頃合いは親父まかせ。その日の気温とおでんの出汁の温度次第。燗が出来上がったら、コップからほんのわずか溢れるぐらいに注いでくれます。お酒が表面張力でほんのわずか盛り上がっているコップの頭部めがけて唇を持っていき、酒を吸い込み、大丈夫と確認したらコップを握り、半分ほどを飲み干します。
いつも駆けつけ3杯、今でも
金露は甘口、だったと記憶します。若かったので、味は二の次。今でもそうですが。常連さんが「おまえは駆けつけ三杯だよなあ」と呆れるほどサッサとコップ3杯を飲み干します。お金が無いので、おでんは大根とがんもぐらいしか注文しません。酒だけは飲み続けます。実は支払いはいつも1000円だけでした。屋台の親父が「おまえは一升酒の男になれるから、いくら飲んでも1000円で良いよ」と可愛がってもらっていました。出世払いなんて言えるほど未来が全く見えていない時期です。そんなことできるわけがないと思っていたのですが、若かったし、第一ホントに金が無い。でも、なぜか酒を飲む金だけは持っている。テレビのドキュメンタリーなどで金がないと言いながら、タバコを吸い酒を飲み酔っ払っている人が登場しますが、そのカラクリは人様々とはいえ、気持ちはよくわかります。なぜか目の前に酒を飲む金はあるのです。
金露の二日酔いは強烈!強烈!
金露を気持ちよく飲んだ後の二日酔いがすごかった。あんなに楽しくおいしく飲んだ日本酒なのに目が覚めると、脳ミソがぐちゃぐちゃになる痛さが待っています。金露のせいではないのです。ただ、一緒に泥酔した兄貴やその友人らみんなが「金露の二日酔いはすごい」とそろって話していましたから、それだけおいしく大量に飲める酒であることは事実だったと思います。
その金露で屋台の親父にしこたま怒られたことがあります。その夜はなぜか溜まりに溜まったストレスが噴出してしまい、ひどく酔っ払いました。真冬だったので、せっかくの燗酒も冷えてしまい、コップに半分残っていました。思わず「こんな冷えた酒を飲めるか」と叫んでコップに入っていた酒を屋台の脇に捨ててしまいました。「酒を捨てるような飲み方をするなら、酒をやめろ!もう飲ませない」と親父に怒鳴られました。親父さんはお客同士が言い合いになっても、滅多に止めに入らないですし、側から見てもそろそろやめてほしいと感じるぐらい過熱した時でも「議論は違う日にやって」と諭すほど決して怒らない人です。その親父に強い調子で「酒を捨てるぐらいなら、酒を飲むな」と叱られました。酔いが覚めるとはこういうことかという瞬間でした。以来、注がれた酒は必ずジョッキであろうとグラスであろうとどんな器でも底には一滴も残さず飲むことにしています。
金露の名誉のために説明しますが、金露酒造は1806年に堺で創業して、その後に兵庫県神戸市に移って銘酒を製造した名門です。阪神・淡路大震災で被害を受け、1997年に廃業したそうです。新聞社に入社してから17年後、金露の廃業記事を見つけた時はショックでした。思い出したのはもちろん、阿佐ヶ谷駅前の屋台とたらふく飲んだ後に襲われた二日酔いでした。屋台で金露を思う存分飲んでしこたま酔っ払った後、小さな路地が迷路のように入り組んだ帰り道を右へ左へとぶつかりながら歩いたものでした。なぜか自由を感じて楽しかった。