大江教会

厚い「思い」が地に沁み込む 南島原・天草 信仰が身近に

天草諸島を巡ってきました。長崎市からスタートし、南下して南島原市の口之津港からフェリーに乗り、天草市の鬼池港に到着するルートで入りました。きっかけは昨年訪れた水俣です。夜軽く飲みもうと入った水俣駅前のお店で隣のお客さんとおいしい魚や釣りなどで雑談していたら、カウンター内の板前さんが「天草の魚は美味しいでしょ。私は天草出身、一緒に働く彼も天草で・・・」とひとしきり天草や水俣に広がる海が話題になりました。「水俣から天草へはどういうルートで帰るの?」と聞いたら、「天草はバスやらフェリーやらいろんな行き方があって、出身の私でも良くわからないのですよ」と笑ってしましたが、何となく天草が謎めいた場所に聞こえました。翌日、天草四郎(本名は益田四郎時貞)の島原の乱で有名な原城へ行くつもりでしたので、天草への妄想が一気に膨らみ、以来頭の隅に「天草」がずっと残っていました。

なにしろ原城からのインパクトは、思いがけないほど強かったのです。日頃、冠婚葬祭などで宗教を思い出す程度の私には、信仰への厚い思いはまさに頭をガツンと叩かれたようでした。「島原の乱」は日本史上最大の一揆として知られ、歴史の知識として覚えてはいました。しかし、石牟礼道子さんの「春の城」を読み、この乱に対する思いを新たにしたのです。カトリック教徒であるキリシタンの盟主として天草四郎が率いる3万人を超える農民を中心にした反乱は13万の幕府軍と原城で決戦に挑み、4ヶ月に及ぶ攻防戦を繰り広げます。幕府の威信がかけて大量の軍事力を投入しているだけに最終的には一揆は鎮圧され、3万人以上の農民が死亡しました。領主の過酷な治世、そしてキリシタンという信仰でこれほどの反乱が起こるのか。現地を見てみようという気持ちで向かったのですが、一度は見てみたいと観光を兼ねた軽い思いは吹き飛びました。

原城の跡は観光客は一人もいませんでした。城跡は完璧に破壊されたまま。その残された跡がむしろ誰もいない静けさが手伝って当時の様子を想像させてくれます。全国で多くの城を見て歩き回りましたが、原城は身体をぐるっと回転ですれば見渡せるぐらいの城です。城の周囲を含めてもこの狭さに3万人以上が篭城し、13万の幕府軍と戦いほぼ全員死亡しました。戦場の現場は凄まじい光景だったでしょう。鎮圧後、2度と反乱の拠点にならないようにと石垣や塁は徹底的に壊されており、幕府側が抱いた恐怖の大きさがわかります。江戸幕府はこの乱をきっかけに鎖国へ突入します。

原城跡から天草の海を見渡す

原城跡から天草の海を見渡す

原城の東側の海に面した土手に小さいな3体の石像を見つけました。視線は天草の方面に向かっています。すぐそばには天草四郎のお母さんが冥福を祈って掘った石碑がありました。幕府に見つからないように民家の石垣に埋め込まれた碑を後に発見して原城跡に持ってきたそうです。母親の愛情の深さ、海を見つめる3体の石像の心象風景にずしりと重さを感じます。

総合案内所で城跡をVRでガイドしてくれるiPadを貸してくれる年配の女性が教えてくれました。「城の周囲に畑があるのを気づいたよね。観光地なのに畑を作らざるを得ないほど、今でもこの地域は農地として使える土地が少ない。昔は比較的豊かだった島原市の周辺はウエ、山ばかりで畑もろくにない南島原はシタって呼ばれていたの。それだけ貧しかった」。原城跡すぐそばの車一台がやっと通り抜けられる路地を歩いて「島原・天草一揆供養碑」にたどり着きました。神社と中学校に挟まれた場所でした。簡単に見つけられる場所ではありません。その足で「有馬キリシタン遺産記念館」に向かいます。道の途中にもキリシタン殉教の記念碑などがあり、「隠れキリシタン」という言葉の重みと意味を歩きながら、体の疲れも加わって何もわかっていないことを知りました。

隠れキリシタン、2018年に「潜伏キリシタン」が世界遺産に選ばれました。正直、選ばれた当時はあれだけ残虐に人間を殺した歴史を持っている日本であるにもかかわらず、いつも通りに「世界遺産に選ばれて良かった」と伝えるニュースの扱いに首を傾げていました。しかし、昨年原城を訪れた後に残った余韻は消えません。言語に絶する迫害を受けながら400年以上もカトリック教徒を選び、守り続けた人々の思いの力を長崎、南島原、天草を訪れてもう一度確認したいと思い、再訪しました。

半年以上過ぎましたが、地図上でしか知らなかった天草諸島に”上陸”できました。最終ゴールは崎津教会です。NHKの新日本風土記「天草」に登場した崎津の紹介を見て、キリスト教と神仏が溶け込んだ町を体感したいと考えたのです。というのも私はキリスト教とお寺、神社いずれもぐっと密集した街で育ったからでした。北海道の函館市の元町です。今は観光地で有名ですが、元町には長崎、横浜と並んで開港した歴史を物語るとように江戸時代からの海外の香りが残っています。私が通ったのは本願寺の大谷幼稚園。歩いて100メートル先にはカトリックの教会。函館山に向かって目の前の坂を上がればロシア正教の教会があります。夕方になると、お寺から「ゴーン、ゴーン」、教会から「カランコロン、カランコロン」と二色の鐘の音が響き渡ります。町の人は「鐘の音をこんな感じで聴けるのは元町だけだ」と自慢していました。ちなみに函館公園にいたライオンは夕方になると夕飯の時間だよと「ガォー、ガォー」と吠えます。幼稚園や小学校を終えると、元町の坂道が遊び場です。お寺のお堂、カトリック教会やロシア正教のハリストス教会の内庭に入り込んでは鬼ごっこや隠れんぼみたいなことをしていました。子供にとって信仰の場というよりもは、牧師さんらは幼稚園の先生と同じ存在です。「そこは良いけど、ここから先は入っちゃだめ」と教会とはこんなものと教えてくれます。すぐ近くの函館山の頂上を結ぶロープウエイ駅のそばには、横浜に次いで二番目とという浄水場があります。そこは幼稚園児の野球場でした。

元町と並んで外国の空気を感じたのが函館郊外のトラピスチヌ修道院。毎年一度は遠足で、他に家族でトラピスチヌを訪れます。修道院の前には鈴蘭が密集している地域があり、釣鐘のような白い花が咲きます。釣鐘の白い花が修道院の前をパア〜と広がっていると、幼稚園や小学校の先生から「採っちゃだめよ」と言われたのが耳に今でも残っています。鈴蘭の釣鐘の花が大好きでしたし、修道院の玄関に立つ白いマリア様の像も大好きでした。

ですから、世界遺産に選ばれたのをきっかけに「天草」には教会と街が生活に溶け込んでいる空気があると知り、雰囲気を体感してみたかったのです。フェリーで着いた鬼池港から下島の西海岸をぐるりと回りながら崎津を目指しました。1時間以上もドライブしていると道すがら、丘の上に白い美しい教会が見えてきました。思わず「あそこには行きたい」と思い、立ち寄りました。

大江教会

大江教会

天草町の大江教会でした。教会前まで近づくと尼僧さんと男性が周囲の樹木や花の手入れと掃除をしています。教会にお参りに入りました。信者の方には当然ですが、お祈りなど日常の生活に溶け込んだ空気を感じます。観光ガイドによると、キリスト教解禁後、天草で最も早く造られた教会で、1933年に建てられたそうです。

訪れた時は教会の周りの木々の手入れをしていたので、お一人の男性に「とてもきれいに手入れしていますね」と失礼ながら声をかけたら、その方は「ありがとうございます」と返しながら、そばの尼僧さんと掃除の手順などを確認している様子でした。教会への奉仕活動という感じはありません。日々の生活の中でやるべきことの一つという印象しか受けない手慣れた流れです。白い教会の建物だけだと美しいと感じただけだったかもしれませんが、尼僧さんと信者の方が丁寧に手入れしている姿が加わり、教会の信仰が生きているのを実感しました。

そこから車で30分ほど走ると崎津教会が見えてきました。私が好きな港町と教会が溶け込んだ風景です。潮風が見えます。キリスト教と仏教徒の皆さんが互いに尊重し合いながら、生活している一端を見ることができました。

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