手話2年生の初級修了「言語は道具、伝えるのは気持ち」
手話の勉強を始めて2年間、なんとか初級講座を終えました。本来は1年間のカリキュラムです。コロナ禍があって休講が重なり講座の期間は2年間に。でも、私には適切な期間でした。年齢のせいにはしたくありませんが、60歳を過ぎて物覚えの衰えは予想以上。1年分の講座内容を2年間で受講できたのはホント、幸運でした。
コロナ禍で初級を2年間
講座の修了式は予想外に感激しました。修了した受講生のうち私のように2年間、通った”同級生”は半分ぐらい。最初の一年目は休講続きで顔を合わせる回数が少なかったのですが、1年間という歳月を経ると2年目は心の距離がグッと縮ます。根気よく続けて体験した時間って貴重です。
修了式は証書授与など一連の儀式を終えた後、お世話になった先生2人に対し、手話を通じて受講のお礼や感想などを伝えることになりました。初級とはいえ、上達の度合いが違いますから手話で思いを伝える表現力にはどうしてもばらつきが目立ちます。とても美しい所作で表現する人もいますし、私などはぎこちなく手や指を動かして途中、先生に教えてもらうカンニングでなんとか凌ぎました。
受講生それぞれの思いを手話でお礼
内容はさまざま。手話を始めた動機、苦労、楽しかったこと、授業で知った驚きと発見・・・。みなさん、ちょっと緊張しながらも、リラックスしたクラスの空気に助けられ、笑いが絶えません。最後は感謝、ありがとう。両手を開いて片方の手のひらを下に向け、もう片方の手を下方の手の甲に90度交差させて上に引き上げます。お相撲さんが「ごっつあんです」と手刀を切る所作に似ています。挨拶が終わると、他の受講生は両手を開いてグルグル回します。拍手の表現です。
仕事で知った世界とは違う貴重な世界を知る
私の挨拶は、この2年間の驚きを率直に伝えました。思いをきめ細かく表現するほどの技量がないので、大雑把ですが正直な思いを手話しました。
手話を勉強する動機は、手話のコミュニケーションは、どういう仕組みで伝えているかを知りたかったから。この2年間、覚えては忘れる繰り返し。でも、とてもたくさん新しいことを勉強しました。仕事で日本、世界を旅行し、多くのことを覚え、勉強したつもりです。しかし、この2年間、手話を通じて勉強したことは、仕事で知った世界とは違い、とても貴重な世界を知ることができました。先生、受講生のみなさんに感謝します。
最後は両手を開き、90度に交差させて感謝し、周囲を見渡してお礼をしました。本当は、途中「にわとりは3歩あるくと、忘れるでそうです。私と同じです」というオチを入れようと思ったのですが、挨拶を始めたらそんな笑いを取る余裕は全くありませんでした。
ホント、手話を覚えていないなあと苦笑していたら、これまでの授業がよみがえりました。
先生は2人。聴力が弱いろう者の先生、手話と日本語の通訳を兼ねた先生。英語の授業に例えれば、ネイティブの先生と日本人の先生がまさにイロハから教えてくれます。ただ、ネイティブの先生は、生徒が英語のヒアリングができなくても、ある程度の会話を目の前で演じてくれます。理解する生徒もしますが、丸っ切りチンプンカンプンな私のような生徒は呆然とするだけ。後から通訳の先生に解説してもらい、英語のヒヤリング力を養うイメージと似ています。
ろう者の先生の所作は流れるように表現されますから、わずかに手話をかじった程度のレベルではついていけません。正直、手話をみながら、諦めの境地に陥る時間が続きます。ところが何度も経験していると、所作の早さに目が慣れ、英語の慣用句を覚えるように手話の慣用句が読み取れるようになります。やはり言語は経験の積み重ねだと痛感します。
先生「上手下手は気にせず、ろう者と積極的に交流して」
そんな気持ちを見透かしたかのように、ろう者の先生は修了式の最後に激励の言葉を投げかけてくれました。左腕を右手で上下に何度もさすりながら、「手話の上手、下手は気にしなくて良いのです。それよりもろう者の人たちと積極的に交流して、楽しく会話することに努めてください」。
すぐそこにある手話の世界に気づかず過ごす
重い言葉にジ〜ンとしました。声は聞こえないのですが、手話の表現が胸の内に一つ一つ刺さる思いです。手話講座の2年間は、手話という言語を習うことだけでなかったのです。手話は言語であり、コミュニケーションに利用する道具。
手話はあくまでも手段。それよりも同じ地域で生活しながらも、日本語で口話する世界とは違う世界がすぐそこにあるにもかかわらず、全く存在に気づかずに過ごしている自分自身を知り、自らの殻を破ってろう者の世界とつながることが大事なのです。
2年間、手話を勉強して本当に良かったと思っています。次は中級が待っています。昇級できるかどうかわかりません。その時は自習します。