気仙沼・向洋高校の遺構で知る「生き残る力」 改めて確認できました

2021年11月末、宮城県気仙沼市の東日本大震災遺構・伝承館を訪れました。東北の三陸沿岸各地には東日本大震災を伝える遺構・伝承館が建設され、開館しています。その中で気仙沼を選んだのは、遺構として保存されている元・気仙沼向洋高校の校舎のほとんどが津波直後の被害をそのまま残していたからでした。

中学生の時、校舎が壊れるかと思ったほどの大地震を経験しました。当時、青森県の太平洋に面した地方都市で育ち、数ヶ月に一度は震度2か3の地震があるような地域です。震度3ぐらいでは驚きません。ある日の授業の時でした。近くに座る同級生の顔が急に右へ左へ振れて見え始めました。「あれっ」。目がおかしいと思ったら、教室の天井が飛び跳ねて隙間から空が見えます。「天井って跳ぶんだ!」もっとすごい「あれっ」に襲われます。

地震の避難練習はたびたび繰り返していましたから、すぐに机の下に潜り込みます。収まったかなと思った時、先生の指示に従ってクラスのみんなと一緒に校庭に逃げたのですが、今度は中学校の木造校舎が斜めに傾き始めました。「えっ、えっ」。二階から一階へ下る階段を走る最中、「校庭にたどりつくまで校舎は大丈夫か」と慌てました。中学校は水田を埋め立てた敷地に建てられていました。地盤が軟弱でした。校庭のあちこちは液状化現象が発生してボコボコに盛り上がり、余震の時は泥水が噴き上がっていました。

そんな地震の経験があったせいか、地震と津波の被害を受けた学校はどうなったしまうのか。しかも、遺構の校舎3階には津波に押し流された車が当時のまま残されてます。大地震のみならず校舎全体が津波をかぶるほどの破壊力を自分の目で確認したかったのです。

BRTに乗って陸前階上駅へ

BRTの走行路

元・向洋高校の遺構・伝承館の最寄り駅はJR陸前階上駅です。気仙沼駅からBRT(バス・ラピッド・トランジット)と呼ばれる交通を利用して向かいます。気仙沼線が震災後、元に戻るためには莫大な投資が必要なため、その路線を道路として整備して専用バスが走っています。BRTに乗るのは初めての経験ですから、バスといってもどんな乗り方をするのか、また専用道路といっても従来の自動車道とどう違うのか興味津々でした。ちょうど一年前の2021年3月、震災後10年を機に日本新聞協会が開いた記者会見で気仙沼市長が鉄路にこだわらずBRTを選択してよかったと発言していたのを思い出しました。

陸前階上駅から伝承館までは歩いて15分ほどです。駅を降りて海岸に向かいます。目の前はさっと開けます。遠くに大きな建物が見えます。「ああ、あそこだな」と見渡せます。建物をめざして歩きながら、震災の前は住宅や会社の施設などが海岸まで埋め尽くされていたはずです。それがまるで以前から更地のように見渡せます。よく見ると伝承館と思う建物の隣の敷地でパークゴルフをする姿が目に写ります。残された更地を有効に活用するため、伝承館を核に市民の公園として再開発したのかなと思いましたが、こちらのひとり勝手な勘違いもあって伝承館とパークゴルフが並ぶ風景にはちょっと違和感を抱きながら、伝承館に到着しました。

校舎にはすさまじい破壊力が今も残る

伝承館には開館時間より早めに到着してしまい、館内にある資料やパネルを見て回ります。多くの資料に見入りましたが、なぜか地図に表記された地名の波路上に引っかかってしまいました。周辺の土地は波路上瀬向、波路上〇〇といった感じで地名の冠として使われています。「なんて読むのだろう?」見学を終えた後、スタッフの方に聞いたら「はじかみ」と読むそうです。「アイヌの人たちの地名から来ているんじゃないかな」と話していました。父親からアイヌの酋長の人形を守り神として与えられた私です。この地に来て、なんかうれしかったです。

そんな震災とは無関係な素朴な疑問と喜びを抱きながら、伝承館の見学をスタートしました。伝承館に保存された元・向洋高校の遺構はテレビや新聞で盛んに紹介されていますし、伝承館や気仙沼向洋高校のホームページでも参照できます。私のような一見の人間が詳細を語るのは不遜です。以下のアドレスは向洋高校の「その時現場はどう動いたのか 3.11の震災直後の動向」です。臨場感あふれるリポートです。ぜひ一読ください。私が撮影した映像と編集した動画をサイトにアップしています。撮影と編集のレベルは低いですが、雰囲気はわかっていただけるかと思っています。

https://kkouyo-h.myswan.ed.jp/prospectus

校舎3階に残る車

心に強く刻み込まれたのは、予想を超える地震と津波に襲われ、生徒を校舎から離れた高台へ無事に避難させた後、校舎に残された教職員らのみなさんが最上階4階屋上に避難して生き残った事実です。高校のレポートには震災1年前に起こったチリ地震の津波避難訓練の経験が活きたと書かれています。中学校の時も昔のチリ地震による津波の事例が避難の心がけとして聞かされました。「津波はこの高さまで押し寄せた。だから大地震が起きたらあそこまで駆け上がれ」と。向洋高校のレポートを読むと、先生らの判断が的確に指示され、実行されているのが分かります。さまざまなことがあったのでしょうが、犠牲者が誰もいなかったことに心からホッとしました。

冷凍工場の激突の後

校舎を一階から見学すると、地震と津波の破壊力に言葉を失います。机、椅子、教材やパソコンなどがあちこちに散乱しており、3階には津波の力で潰れた車があります。校舎の壁には津波の力で岸壁そばにあった冷凍工場が流され、校舎に衝突した跡もあります。衝撃的な風景の中で、校庭に立つ一本のひばの木を見て「生きる力」を感じました。卒業生が植樹したもので、津波に完全に飲み込まれたのですが、いまも遺構となった高校の中庭でしっかりと生き残っています。この木にはとても励まされました。

実は元・向洋高校の遺構を選んだ理由はもう一つあります。もともとは水産関係の教育を根幹とする「水産高校」だったからです。私が育った街は日本有数の漁港だったこともあって、中学校の友人には地元の水産高校に入学したり、中学卒業後に漁師になったりしています。「水産高校」はとても身近な存在でした。「あいつなら北洋漁業でオホーツクに行っても必ず帰ってくる」という逞しさと強さを覚えてます。東日本大震災で甚大な被害を受けた校舎を見て、改めて「生き残る力」を感じ取ることができました。よかったです。

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