崎津の教会

厚い「思い」が地に沁み込む 南島原・天草 キリシタンの集落に「しめ縄」がある。

天草市の崎津に着きました。大江教会からの道は整備されており、気持ちよくドライブしていると、すぅ〜というイメージで崎津の港の風景が見えてきました。大江教会は丘の上で白い輝きを放っていましたが、崎津教会は小さな湾と山が溶け込んだ背景に尖塔が集落に守られながらスッと胸を張ったように映えてみえます。

崎津集落の通りに入ってアレっと思っている間にほぼ行き止まりの漁協の事務所までたどり着いてしました。先ほど見かけた教会の尖塔を探す間もありません。Uターンして走ると女性のガイドさんらしき人が総合案内所に立って、歩いている観光客に積極的に声をかけているのを見ました。崎津教会を訪れる前にホームページを見ると、教会内の礼拝の注意なども明記されているほか、訪問する日時を事前に連絡するように案内されていました。観光客の訪問で小さな集落の日常生活が混乱しないように配慮しているのだと思っていましたが、観光客に対して受け身にならず崎津の住民の方から能動的に対応する姿勢は素晴らしいです。世界遺産に選ばれたことの責務を理解し、果たす覚悟がはっきりと感じ取れます。ただ、ここでガイドさんに話しかけたら、いかにも世界遺産を訪れましたという街歩きになってしまうと思い返し、ガイドさんがいない道筋を勝手に選び歩き回ります。といっても、小さな集落です。道に迷う間もないまま、ぶらぶらしているだけで崎津教会の前に立つことができました。

教会を設計したのは鉄川与助さんという建築家で、大江教会も設計したそうです。こんなに美しい建物をいくつも設計し、建築できる才能が羨ましい。大江協会は白く輝いていたので、崎津教会の灰色はちょっと地味に映ります。ちょっと感動が薄い。「あれっ」とここで気づきました。大江教会の美しさに魅せられてしまい、何を見ても大江教会と比べてしまい、崎津教会への感動が減衰している自分がいました。今回の旅行の最大の目的地である崎津に着いたにもかかわらず、ワクワク感が少ないのです。立ち寄る予定になかった大江教会のイメージがまだ頭の中では鮮明に残っています。事前に勉強をせずに偶然に対峙した方が感動の度合いが大きいのでしょう。「旅のあるある」ですか。

しかし、そんな目眩はすぐに泡のように消えました。崎津教会のドアを開けると、堂内は畳が敷いています。町の集会場に入ったようです。信徒の皆さんがどうお祈りしているのかわかりませんが、畳の上に座って牧師さんの説話を聞いたりお祈りしている様子を思い浮かべると、寺の本堂に座ってお坊さんと一緒に両親や兄弟の供養をお祈りする自分の姿と重なります。歳を取ったせいなのか、親族で亡くなる出来事が相次ぎます。心の安寧を確認できる空間とは何かと考える機会が増えます、というか続きます。崎津教会の堂内に敷かれた畳を見て、仏教徒の私にも身近な礼拝堂に感じられます。信徒の方には申し訳ないですが、教会の堂内の長椅子を見ると友人らの結婚式で出席した時の緊張感を思い出します。立ったり座ったりと落ち着かない時間が続き、妙な緊張感と長椅子が二重写しになるのです。長椅子に罪はありません。畳敷の堂内を見て、すんなりとわかりました。軒先が連なる集落の中心に教会がある重要性を、です。家から歩いてすぐの場所に教会があれば、今日一日の大事さと心の安寧を確認できますから。

教会を離れて近くの家の玄関を見ると、お正月に見かけるしめ縄を飾っていました。年末年始でもない時期なので不思議に思い、総合案内所の方に尋ねました。「私の家はキリスト教徒ではありませんと示すために一年中飾っているのです」と説明してくれました。そうです、集落全員がキリスト教徒ではありません。仏教徒の方もいます。ただ、潜伏キリシタンの信徒は弾圧された江戸時代、表向き仏教寺院に属し神社の氏子にもなっていたそうです。実際、崎津教会のすぐそばには崎津諏訪神社があります。キリスト教徒ではないことを意思表示するためにしめ縄の飾る習慣が続いているという説もあります。しかし、すでに信教の自由は守られています。今でもしめ縄を飾る習慣があることには驚きました。小さな集落です。誰が何を信仰しているのかはお互いわかっているはずです。「今も飾る必要があるのですか?」と総合案内所の方に質問したかったのですが、数百年続く土地の習慣なのかと思い、質問しませんでした。しめ縄は潜伏キリシタンの歴史を忘れさせない土地の証だと受け止めるべきなのでしょうね。

新日本風土記で紹介された「海上マリア像」に向かいました。教会や神社がある通りを過ぎて漁協の事務所のそばからお参りできます。マリア様は漁に出る船を見守るため、陸上側からはお顔を拝めません。良いですね。漁港で育っただけに、漁師さんを大事にする街は大好きです。北海道のトラピスチヌ修道院も同じですが、白いお姿のマリア様は人気があります。やはりお母さんだからでしょうね。山腹を見上げると、墓地があります。九州はお墓の文字を金色にするのが習慣だそうで、ピカピカと太陽の光に反射するお墓ひとつひとつ存在感を放っています。青森県にある実家のお墓には文字が彫られていますが、彫られた跡は石の地肌のままです。2000キロ近くも離れれば土地も習慣も大きく違うものだと当たり前のことを考えながら、金ピカに輝く四角いお墓と十字架が並んでいる風景に見入りました。

もちろん、驚いた点もあります。教会の場所の選定です。現在の崎津教会は1934年にハルブ神父が再建し、建設場所はキリシタン弾圧の絵踏みがされた庄屋役宅跡を選んだそうです。壮絶な弾圧を経験した「潜伏キリシタン」の歴史は崎津教会のすぐそばにある「崎津資料館みなと屋」で再確認できます。過酷な監視下の中でアワビの貝殻の内側に映し出される模様をキリスト教の信仰対象に見立てたりと身近なものにお祈りしていました。多くの犠牲を出しながらも300年以上も信仰を守ってきたのですから、教会建設の際も、その思いの深さが反映されるのは当然なのでしょう。

長崎市の大浦天主堂も同じでした。天主堂の歴史などを説明する冊子によると、大浦天主堂は当初の建設候補地として26聖人が殉教した西坂を考えたが、当時の居留地外だったので南山手が選ばれたとに書いています。バチカン市国のサン・ピエトロ寺院は聖ペテロの墓といわれた場所が選ばれ、殉教者記念教会堂として建設されたとあります。仏教、キリスト教、イスラム教に精通する稀代の思想家、井筒俊彦さんは確かキリスト教は痛みを重視する宗教と指摘していたと思います。さらにユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じ源から生まれたと説明しており、殉教に対する向き合い方に共通点があるのでしょうか。

小さな崎津集落でも教会建設の際に最優先されていたとは思いもしませんでした。「結婚式は神式かキリスト教、披露宴は和服とドレス、葬式はお寺さん」にあまり違和感を持たない日本の常識を思い浮かべると、崎津集落の皆さんが信仰と自分たちが暮らす土地への思いが深く重なり、その土地に先祖から受け継いだ信仰が深く厚く沁み込み、かけがえのないものだと考える重みを改めて感じます。

余談ですが、十字架のロザリオの大きさに驚いた経験があります。大学生時代、九州を一周しました。お金がないのでホテルには宿泊できないため、大分県臼杵市である旅館でお願いしたら破格の料金で泊めてもらえました。お布団とお風呂付きで食事はありません。空腹はガマンできますから。久しぶりの風呂と勇んで脱衣所へ行くと体格の良い人ばかりです。お風呂で聞いたら近くの工事現場で働いている人たちでした。びっくりしたのは大きな十字架のロザリオを胸からぶら下げている人がいたのです。当然、裸ですがロザリオを身に付けたままです。ファッションとして首にかけるような小さなロザリオではありません。手のひら大です。初めて見ました。軽薄にもロザリオとは胸にぶら下げるネックレスの一つみたいなものと勘違いしていたので、本来はお風呂の中でも外さないものなのかと初めて知りました。

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