65歳から始めたメディアサイト😀11 西脇順三郎の散歩と花が遠い彼方に見える
「(題は勝手に)」。400字詰め原稿用紙の右上隅にササッと走り書きされています。「題は勝手に決めてと言われても、誰も直せないようなあ〜」と思わず笑ってしまいました。
「題は勝手に」に思わず人柄を
題は「野原を行く」。左横の原稿用紙の四角い升目にあります。改行して書き出しへ。「文明がすすむにつれ、その反動として自然に戻りたい気持ちがますます盛んになる。人間がそういう風にバランスをとることは人間生活を健全にする自然の力であろう。」
原稿用紙には鮮やかな、そして軽やかな筆致が躍っています。詩人が解放する言葉の生命力を放っているせいか、読み始めたらどんどん原稿用紙の升目を目で追ってしまいます。これが詩人の力なのでしょうか。
没後40年記念展を訪れる
東京・三田の慶応義塾大学アートセンターが開催した西脇順三郎没後40年記念展「フローラの旅」を訪ねました。
西脇順三郎の詩は高校の頃から好きで、その文庫本は今でも大事に本棚に。といっても日本語の才は全くなく、源氏物語や方丈記などを学ぶ古典の授業は始まったら睡眠するだけの高校生でした。
ところが、西脇順三郎の詩だけはピタッと肌に合う。この表現しかありません。詩の内容は理解できていません。ギリシア、ローマ、フランスなど時空を超えて歴史上の人物やエピソードが飛び交い、チンプンカンプン。「なんでこんなに知識があるんだろう」とただ驚くだけ。博覧強記というエゲツない漢字の並びが示す通り、恐怖を感じたほどでした。ひたすら平伏するしかない。でも、詩を読み始めると宇宙をワープするような浮揚感を覚えます。
なぜか西脇順三郎の詩に浮遊感
大学生になっても変わりません。ゼミなどで経済学や経営学の本を読んで頭の中がクシャクシャした時、西脇順三郎の詩集を開きます。なぜか気分はすっきり。文学の才はゼロですから、その素晴らしい理由は皆目わかりません。でも、なんか気持ちの整理がつくのです。大学を卒業して新聞記者になってからは、西脇順三郎の詩の世界は遠ざかるだけでした。本棚に並ぶ背表紙を見て、存在を確認する程度。
ところが2年ほど前、父親が遺した小泉信三全集を読んでいたら、西脇順三郎さんは野坂参三さんと一緒に小泉信三先生の教えを受けていたことを知ります。野坂参三さんは共産党の歴史的人物。西脇さんは卒論をラテン語で提出するほど語学の天才。とてもおもしろい。
小泉信三、野坂参三、井筒俊彦と連なる人物にのめり込む
続きがあります。一年ほど前から読み始めた井筒俊彦さんが師とあおぐのは西脇さん。井筒さんは30カ国語以上も自由に操る天才で、キリスト教、イスラム教、仏教など世界の宗教を素材に独自の哲学を創案しました。世界の知が集まるエラノス会議で講演した書籍を読むのですが、こちらも何回読んでも理解できない難解さに息を呑みます。でも、知恵の輪を楽しむようで、ただいまハマっています。
西脇順三郎さんを切り口に改めて世間を眺め直してみたら、これまで見えなかった風景が見える気がしています。その記念展の主題は、日課とした散歩を通して観察する植物や花でした。この視点から西脇順三郎の芸術の根底を鑑賞してほしいとあります。
同じ地域を散歩しているだけでうれしい
散歩した地域は広範ですが、津田塾などでも教えていた関係で武蔵野近辺を好んで歩いていたそうです。西脇順三郎さんは「私などは自然の風情を詩かなにかですぐ書きたくなる。実に悪いくせだ。人間の文芸的な行為は決して素朴なものではない」と吐露していますが、節操のない私は「悪いくせ」にハマっています。
同じ武蔵野をほぼ毎日歩き、「今日はどんな原稿を書こうか」を考えながら、四季によって変わる道端や公園の花に刺激を受けています。毎日同じ道を歩いてると、これまで見逃していた植物や花に気づき、その美しさに感動します。自分にこんな繊細な視線があったことに2度びっくりしますが、自らのくせ、生活習慣を楽しむ日々です。
サイト制作を始めたからこそ知った楽しさ
サイトを始めて本当に楽しいことが続きます。比較するのも大変失礼と承知していますが、西脇順三郎さんと同じように歩きながら、道端の美しさに目を奪われる日常を過ごしていることがうれしいのです。
最後は種田山頭火が詠んだ句で。
「歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい」