棟方志功記念館・閉鎖 郷土の才能は空気と水 いつもそばで感じたい
青森市の棟方志功記念館が3月末で閉鎖します。板画家の棟方志功さんの代表作「二菩薩釈迦十大弟子」はじめ初期の作品も含め収蔵作品は多く、定期的にテーマを設定して展示品を替えていました。そんなに広くありませんが、作品をじっくり鑑賞してその余韻を楽しむには十分。青森県から多くの芸術家が輩出していますが、棟方さんほど「ねぶた」「津軽弁」が似合い、青森を愛した芸術家は少ないでしょう。郷土が産んだ素晴らしい個性がいつもその地にある。記念館の閉鎖はその手応えを失うようで、なんか寂しい。
ねぶたと津軽弁の響き
棟方志功記念館は1975年11月に開館しました。建物は校倉造りの外観に回遊式の日本庭園が配され、青森市内の中心部にありながら、静寂な空気が漂うのが好きでした。板画を中心に倭画、油画、書など初期の代表的作品の大半を収蔵しているのが特徴で、その数は1900点を超え、国内最大のコレクションだそうです。
現在は、棟方志功さんが自伝「板極道」で示した初期から晩年までの38作品166点を展示しています。「大和し美し」、作家としての世界的な評価を定めた「二菩薩釈迦十大弟子」など誰もが知る作品も加わっており、最後の展示会にふさわしい華やかさが館内を包み込んでいるのでしょう。
墓参りの帰りに立ち寄る
私は青森港がすぐ目の前の家で生まれ、半年後に津軽海峡の向かいにある函館市に移り、育ちました。両親が青森市出身だったので、高校生の頃まで毎夏ねぶた祭りに参加し、夜中まで跳ねて回った楽しい思い出があります。その後も祖先が眠るお墓がある青森市の三内霊園を毎年訪ねています。
棟方志功さんは小さい頃から世界的な版画家として知っていましたが、醸し出す雰囲気は津軽衆そのもの。ねぶた祭りの浴衣を着てねじり鉢巻している姿がとても好きで、その表情は破顔一笑を板画に彫り込んだよう。津軽弁でねぶたの魅力を語る言葉の響きは「青森の夏」を映し出します。「ドン、ド、ドン、ドン、ドン」と叩く太鼓をベースに「ピーヒャ、ピーヒャ、ピーヒャララ」と横笛が鳴き始めます。体が自然に跳ね、「ラッセラー、ラッセラー、ラセ、ラセ、ラセラ」の雄叫びが止まりません。
記念館は三内霊園のお墓参りの後、青森市に宿泊した時に何度も訪ねました。「二菩薩釈迦十大弟子」はいつ見ても感動しますし、いずれの作品も棟方志功さんの郷土愛が伝わってくるからです。
閉館の理由は、建物の老朽化や新型コロナウイルス禍に伴う入館者数の減少などで、致し方が無いと納得します。記念館の閉館後は青森県立美術館に移管されるので、作品の鑑賞に不便はないのですが、「棟方志功の魂」が「塊」として感じ取れる機会を失うのはとても寂しい。それぞれの作品に込められた思いが充満する空間は、残念ながら県立美術館では再現できません。
平野政吉の「秋田の行事」
こう考えるのは前例があるからです。秋田市の「平野政吉美術館」。藤田嗣治さんの大作「秋田の行事」があることで知られていました。平野さんは1895年生まれで、米穀商を営む豪商の3代目。若い時から浮世絵、絵画を収集していましたが、藤田嗣治の作品に惚れ込み、「藤田嗣治の作品を集めた美術館を秋田に建設したい」という夢を抱き、藤田嗣治さんに壁画制作を依頼したそうです。
藤田さんは1937年、半年かけて秋田の風物を綿密に取材した後、わずか15日間で縦3・65メートル、横20・5メートルの大作を描き上げました。秋田の文化と風俗を俯瞰できる大作壁画「秋田の行事」の有名なエピソードです。
平野政吉美術館は30年後の1967年5月に開館。館内は、この大作をさまざまな視点から鑑賞できるように専用の大きな空間が創られました。2000年代に初めて訪れ、「秋田の行事」を見た時、作品の素晴らしさはもちろんですが、来館者が思う存分、大作の魅力を堪能できるように美術館を設計した平野政吉さんの思いに感動したものです。大好きな作品のために資金を注ぎ、他の美術館ではあり得ない室内空間を造り上げてしまう。ルネサンス芸術を支えたイタリア・フィレンツェのメディチ家のようです。
県立美術館ならOKというわけには
秋田の行事は現在、新しく完成した秋田県立美術館で展示されています。安藤忠雄さんの設計で、県立美術館でも大きな空間の中に展示されています。でも、空間の大きさが以前と段違い。大作が窮屈そうに見えます。魅力が半減した印象です。秋田の豪商がこの大作のために美術館を建設した思いと比べようもありません。
美術館は、作品の魅力を引き出す器です。絵画が額縁によって放つオーラが変わるのと同じです。棟方志功さんの作品も記念館と県立美術館では、その輝きも変わるのでしょう。