東電の社長とは② かつて経済界に君臨 企業経営と国策の板挟みに、現場の声も届かず
1980年代初め、東京電力の福島第1、第2原子力発電所を取材した経験があります。当時は金沢市を拠点に石川県や福井県で進む原発建設計画を巡るニュース・企画記事を書いていました。
福島県を訪れたのは原発の先進事例だったからです。原発建設、そして運転開始後、関連企業の進出など地域経済への波及効果を確認したかったのです。福島第1はすでに稼働。建設中の第2では運転開始後は立ち入りできない格納容器内も見学することもできました。内部はまるでジャングルジム。多くの配管が張り巡らされ、動き回るためには腕や足をタコのように捻りながら前進します。やっと原子炉本体に辿り着いた時、予想よりも小さく驚いたのを覚えています。見た目は映画エイリアンの女王の巣とそっくり。「恐ろしいものは似るもんだ」と奇妙な感激が湧きました。
福島原発の格納容器内はジャングルジム
案内してくれた東電の担当者は多くの質問に率直に説明してくれましたが、1回だけ言葉を飲んだ時がありました。「大きな災害に襲われ、送電線が切れたりして原発の安全運転を維持する緊急電源が落ちた時はどうするのですか」と質問した時です。フッと息を吐きながら「ここは発電所です。電源がなくなることはあり得ません」。
「原子炉を制御できなくなるメルトダウンという緊急事態は想定しないのですか」と続けると、「万が一、緊急電源がダメになったら格納容器に海水注入して原子炉を冷やすしかありません。機器や配管は塩水にやられるので、原発は廃炉に」。30年後の2011年3月、まさか海水注入を現実に見るとは思いませんでした。
東日本大震災の後、大学の先輩で東芝OBにお会いした時、とても悔しそうな表情で福島原発の建設当初のエピソードを話してくれました。福島原発の基本設計は米国で実績を持つ米GEが担当しており、建設は東芝など日本企業が請け負いました。日本の原発建設はまだ経験値が少なく、東芝や日立製作所など日本メーカーはGEから原発を一から教えられている立場でした。
東芝は設計変更を提案したが、GEは却下
にもかかわらず、東芝はGEに対し設計変更を提案したそうです。基本設計では原子炉を制御する緊急電源・ポンプなどの関連装置を低地に配置していました。GEの設計思想は米国で多発するハリケーンを想定しており、そのまま福島県でも踏襲したのです。東芝は太平洋に面した福島原発が大地震や津波に襲われる可能性を指摘して、緊急関連装置を津波に襲われても安全な高い土地に設置するように提案したそうです。
東芝の提案を受けたGEは、東芝に対し「設計変更に伴い運転に支障がきたした場合、責任を負う覚悟があるのか」と迫ったそうです。GE から原発技術を教えられている東芝が「責任を取れる」と言えるわけがありません。
電力業界がまるで競い合うかのように原発の新増設に突っ走っていた時代です。福島県では第1に続き、第2の運転が開始。他の電力会社も東電に続けとばかりに原発の建設計画を加速していました。多くの原発計画が建設立地先の強い反対運動に直面しています。「原発で事故は起こらない」。机上の空論ともいえる安全神話を前提に地元自治体に説明しているのですから、電力会社から原発メーカーに対し安全運転について疑問を呈するわけがありませんでした。
東電の経営は複雑骨折
1980年代は電力需要がどんどん増え続け、追いつかない状況です。石油・ガスなどエネルギー源を海外に依存する資源小国・日本にとって原発は自前のエネルギー確保に直結します。国策と電力会社は同じベクトルに向かっていました。
しかも、原発は東電内で「原子力村」と呼ばれる専門技術者集団が囲い込んでいました。原発技術部門のトップは副社長クラスに就き、最終的な判断を任されています。東電の社長といえども、原子力村の硬いガードを突き破るのは無理でした。仮に原発の建設・運転の現場から安全対策の声が寄せられても、社長の耳に届く可能性は低かったと思います。電力会社は安全神話の自縄自縛に囚われ、経営判断を下す組織も複雑骨折していました。これが東電社長の実力の実態でした。
1984年から1993年まで東電を率いた那須翔社長も原発建設で頭がいっぱいでした。計画停電を想定しなければいけないほど電力需要が拡大しているにも関わらず、建設計画は予定通りに進みません。「このままでは原発の建設や運転などのノウハウ、さらに原子力関連の技術者育成にも支障をきたす」と原発産業の将来に危機感を示すほどでした。
原発推進は経営能力を超える存在に
原発建設や関連産業の将来について電力会社が国に代わって背負う形にすり替わり、その存在は電力会社の経営能力を超えるほど膨張してしまいます。東電など電力大手は政治的な影響力を介して通産省など霞ヶ関に圧力をかけ、本来なら一蓮托生でなければいけないはずが、対立する構図に変貌してしまいます。絵空事の「安全神話」を前提に原発を推進しているにもかかわらず、企業と行政が互いに信じ合えない。それが後に事故隠しなど多くの不祥事を生み続ける土壌になってしまったのではないでしょうか。=つづく