アボリジニの絵 ブッシュポテト

アイヌ、アボリジニ、マオリ 豪州の砂漠で見た星空

1990年代半ば、オーストラリアのシドニーで3年間を過ごしました。新聞記者として駐在しましたので、昔風に例えれば特派員。NHKの「特派員報告」はとても好きな番組でした。憧れの海外駐在でした。といってもベトナムやインドなどの東南アジア、南アジアを飛び回るつもりでしたので、目指した地を通過し、はるか赤道を越えて南半球まで来てしまったのは少しがっかりでした。でも、浅はかな自分に気づき新聞記者としての視野を広めることができたうえ、「アボリジニ(本来はアボリジニナル・ピープルかアボリジニナル・オーストラリアンがより適切かと思います)」と出会えるなど数多くの幸運を呼んでくれた「残念」でした。

まず一つ目の幸運。当時、オーストラリアのキーティング首相はオセアニアとの一体化を目指すアジア志向政策を推し進めていました。アジア太平洋地域の将来を取材したかった自分にとってアジアとオセアニアがどう連携していくのか、そして何が一体化できないのか。アジアの視点に縛られずにオーストラリア・ニュージーランドを加えた複眼で取材する重要性に気づきました。そして二つ目の幸運はアボリジニと北海道とのつながりでした。オーストラリアは18世紀から英国の移民が始まり、日本では白豪主義の排他的な面で知られていました。しかし、1990年代のオーストラリアは白豪主義からアジアと政治経済で接近するために試行錯誤していました。それはオーストラリアの先住民アボリジニとの歴史をいかに再考するのか、またニュージーランドでも先住民マオリとの歴史の精算を探り始めた時期と重なります。日本人にとってアボリジニの人々はどう映るのかは正直わかりませんが、北海道で育った私にはアイヌの人々と重なり、違和感は全くありませんでした。外観はなんとなくアボリジニとアイヌは似ていますし、自分たちが住む前にすでにその土地で暮らしていました。「その1」で書いたようにアイヌの神話・文化を幼い頃から親しんだ私にとって、和人以外の文化を持つ人がそばにいる違和感はありません。むしろ、アボリジニとアイヌの違いは何?にとても興味が湧きました。事実、オーストラリアを離れて20年ぐらい過ぎた時に札幌のアイヌのお店に入った時、携帯していたアボリジニのデザインを模したトートバックを持っていたら、アイヌの女性は「これはアイヌの?へえオーストラリアでも同じデザイン模様があるんだ」と驚かれたことがありました。

先住民の権利回復はオーストラリアが先行

日本では先住民アイヌの諸権利をどう評価するのかなどまだ足踏みしている状態ですが、オーストラリアでは裁判でアボリジニの土地所有権を一部認めるなど先住民との歴史の精算が始まっていました。英国は植民地として所有したつもりでも、人類史で見ればアボリジニは英国移民よりはるか昔から住んでいます。アボリジニの人々は土地の所有権を主張します。しかし、当時は日本の北海道と同様、アボリジニの人々の先住民としての諸権利のほとんどは認められず白人のオーストラリア人からは差別され続けています。

日本でもオーストラリアでも「おまえがなぜアボリジニを取材するのか」という疑問はあちこちで投げかけれられました。APEC(アジア太平洋貿易協定)が動き始め、中国の東南アジアへの戦略が本格化し始めた時期です。取材の本筋はAPECはじめアジア太平洋の安全保障政策などにありますが、肌感覚で先住民アボリジニへの関心は変わりません。豪大陸中央部の砂漠地帯へトヨタのランドクルーザーでアボリジニの集落に一人向かった時があります。気温は40度を超え、万が一に備えスペアタイヤは二本、ミネラルウォーターは大量に携帯することが義務付けられ、アボリジニの住居地域に入る許可証が必要でした。速度150キロ以上で2、3時間砂漠を走り続けても周囲の風景は変わりません。(本当は180キロ以上で走ることができるのですが、砂漠のダート道は怖くて180キロは出せませんでした)地上から舞い上がる高温の気流のせいか小さな竜巻2本が起こり、車と並走する時もありました。いやあ、こちらも怖かった。気温が50度近いのにアボリジニの少年が砂漠を歩いています。立ち寄ったガソリンスタンドでは「なんで日本人がこんなところにいるんだ」とこれまで何度も繰り返された質問を受けます。ようやく「ヨンドムゥー」と呼ばれる土地に着き、歩き回っていると人の気配は感じられるのですが誰も見当たりません。きっと遠くから見張られているのです。突然、白人がどこからか現れて「なんでここに居るんだ、こっちに来い」と事務所へ引っ張り込まれ、5、6人に囲まれながら「許可証は持っているのか。取材の理由は何か」と次々と質問されます。まるで査問委員会です。「許可証はアリススプリングで取得した。アボリジニの文化や生活を日本に伝えたい」という趣旨を何度も説明し、なんとか取材と宿泊のOKをもらいました。オーストラリアの歴史を振り返るとアボリジニを白人の生活習慣に取り込む政策があり、今でもアボリジニの人々にその後遺症は強く残っっています。ですから当時でもアボリジニの生活と文化を守るために予想以上に神経質になっていることに驚きました。

逆に「日本でアボリジニの記事は読まれているのか」という自らの記事に対する疑問もありました。アボリジニといえば、砂漠や洞窟で暮らしながらブーメランによる狩や樹木の果実や昆虫などを食べている原始的な生活をしていると考える人もいるかもしれません。専門家ではありませんので学問的な解説はできませんが、移民国家オーストラリアでの差別、アボリジニアートなどを通じた文化の取材で感じたのは私たちが常識と尺度で比べて「原始的」と批評することもできるかもしれませんが、むしろ「先進的」として学ぶことが多いということです。

アボリジニの生活からテレワーク時代に学ぶべきことが多い

例えばアボリジニの人々は日中、木陰に集まっていることが多いのです。白人の中には「木の下でのんびりして働きもしない」と苦笑する人もいます。しかし、アボリジニの研究家に聞くと、オーストラリア内陸部の日中は気温が40度を超える暑さ。厳しい暑さの中を動き回るのは体力を無駄に消耗するだけ。その日その日の気候を見ながらどう働き、食物を収穫に行くのが効率が良いと考えているからと説明します。自然と順応しながら食物を必要な分だけ収穫し、暮らすことを心掛けているのです。コロナ禍で私たちは通勤時間が有効なのか無用なのかを考えました。テレワークで在宅勤務の長所、短所を感じました。大量に食物を残しながら、日本の食料自給率は低いと危機感を煽る論調がまだ残っています。”文明の尺度”で効率的、いや怠惰などと語ってきた空疎な生活インフラの危うさに気づいたはずです。またアボリジニアートでは人間、食物の在り処、泉の場所、集落などを象徴的な絵図で描かれます。洞窟などの壁には手のひろを押し付けた跡を見かけます。いずれも家族や一族のみんなに与えられた自然環境の中でどう生きていくのかの情報、そして自分たちはここに生きていたのだという存在感を示す証ですし、いわゆるフェイクニュース、嘘の情報は死に直結します。私たちがアートと呼ぶ絵画には正しい情報を伝えたいという強い思いが込められています。

砂漠の夜空に白砂が巻かれたように星が広がる

オーストラリア大陸のど真ん中の「ヨンドムゥー」で宿泊した夜。アボリジニの人々が夜空に向かって叫ぶような声が響き渡りました。お祈りなのか歌なのか不明です。その叫び声に導かれるように外に出てトヨタのランドクルーザーの屋根に座り、夜空を仰ぎ見ました。まるで白砂をばらまいたかのような星空が広がっています。地球を感じた夜でした。

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