なぜ「維新」からイノベーションが生まれない 切り捨てる力と育てる力 とは

「維新」という言葉をよく耳にします。これまでも日本は政治も経済も何か時代の区切りをつける時、「開国」「黒船」「維新」の言葉をよく使います。直近をみても、政治の世界では大阪維新の会、それとも日本維新の会が全国で大きな話題を集め、政治勢力として台頭しました。幕末なのか維新なのか時間軸が不明ですが、れいわ新撰組も直近の参院選で3議席を確保しました。産業界では初代から66年経たトヨタ自動車の「クラウン」が16代目にして「徳川15代将軍の時代を終え、明治維新を迎えた」「新しい時代の幕開け」と豊田章男社長はぶち上げました。「維新」とは何かをチャンスかと思い込みました。

「維新」とは天命によって新しいことに挑むこと

「維新」をまず確認しました。岩波書店の広辞苑によると、「物事が改まって新しくなること。政治の体制が一新され改まること」とあります。語源は中国・詩経の「周旧邦と雖いえども、其の命維(れ)新たなり」からの由来です。「周は古い国だが、天命はいつも新しい」という趣旨だそうです。古代中国の政治は天命思想に拠っていますから、これから行う改革は正しいことなのだと理解して良いのでしょう。

それでは明治維新はどうだったのか、とは続けません。直近の維新について考えるのが趣旨なので、目の前の維新を取り上げます。まず大阪維新の会。創立者である橋下徹さんが大阪府知事選に立候補する時、偶然にも大阪の編集局にいました。

立候補を表明する直前に橋下さんと親しい人が「テレビ出演で得ている収入を諦めて府知事戦に出る価値があるのか悩んでいましたよ」と聞いていましたから、府知事に立候補を決意した後の行動力には目を見張りました。反自民党など保守と一線を画す姿勢を強調していましたが、対外的にポーズとは違って当時の関西経済連のトップは橋下氏と会った印象について「なかなか話がわかり、度量もある」とすっかり橋下ファンになっていましたから。

都構想も当時としては既存の発想に縛られず、ちょっと驚きました。大阪府と大阪市は行政規模の格差もあって衝突を繰り返していましたから都構想は一つの打開案かなとは思いましたが、東京都と同じ行政体制に移行したから「大阪が復活するのか」の疑問は解けません。現在に至るまで都構想は僅差とはいえ大阪府民に2度否定されました。

それよりも大阪維新の会が大阪を改革しようとした2008年から現在までの大阪の変化率を確認してみたいです。人口は神奈川県に、県内総生産は愛知県にそれぞれ抜かれ、県民所得は全県平均を下回っています。東京の一極集中が加速しているため、隣接する神奈川県に移住する人が増えていますし、愛知県はトヨタなど自動車や重工業が集中する日本のGDPを支える工業地域です。大企業が大阪から東京へ本社を移す流れはもう30年以上も前から始まっていましたから、大阪の地盤沈下が数字で現れるのは仕方がないでしょう。

だからこそ都構想の実現が必要と強調されるのでしょうが、2008年から2022年までの14年間が「維新」に値するのかどうか。幕末から明治維新への移行期について歴史本を読めば読むほど、かなり大胆、あるいは残虐、非常識な行為が横行したことがわかります。司馬遼太郎の「新撰組血風録」を読むまでもなく有能な人材がいかに切り捨てられたのか。廃仏毀釈に象徴されるような日本史の過去をばっさりと捨て去る政策も実行しています。初代文部大臣の森有礼は日本語をやめて英語を公用語にしようとしたぐらいです。森有礼の英語公用語論は令和の時代だったら、特区構想の一つとして実現するかもしれません。

大阪維新の14年間は「維新」の価値があったのか

大阪の活性化にどこまで寄与したかどうかは不明ですが、今春久しぶりに訪れた大阪駅を見ながら、この14年間に遂行された梅田の再開発をよくぞここまで仕上げたという思いはあります。ただ、大阪とは無縁で育った人間から見れば東京や名古屋の駅前と同じ風景が現出しているにすぎないと冷めた目で見てしまうのも事実です。

イノベーションを生み出せない日本が見えてきました。維新と声高に叫んでも、維新をするには10年単位の歳月では不足。しかも、明治維新に断行した残虐とも非常識ともいえる改革には行き着けない。中途半端な改革に終始する日本の現在を確認してしまいます。

先日の新型トヨタ・クラウンの発表もセダン主体からSUVタイプを加えた程度の維新。冷めた目で見れば、レクサスシリーズに近いモデルが増え、選択肢が増えたにすぎません。むしろトヨタ・クラウンとレクサスシリーズのカニバリが心配です。維新と声高に叫んでも切り捨てる力、育てる力いずれをみても物足りない。栄光の過去を持つクラウンに何かをプラス・アルファする力でしかありません。

イノベーションは、その美名に酔うしかない夢なのか

それが日本の「維新」の限界なのでしょうか。イノベーションは、日本中が横暴、蛮勇との非難を浴びながらも断行する覚悟を持たないと実現しないのでしょうか。今の日本にとって経済学者シュンペーターが唱えた創造的破壊は、その美名に酔うしかない夢のなのかもしれない。残念です。

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