Hiroshima・広島、Minamata・水俣、そして Fuku・島(その1)

映画「MINAMATA」を見てきました。海外の目で水俣病をどう描くのかとともに、ジョニー・デップの演技力が好きだったので、ユージン・スミスをどう体現するのかについても興味がありました。製作に元奥さんのアイリーン・美緒子・スミスさんが関わっていたようなので、全体を流れる通奏低音はどうしてもアイリーンさんの思いと視線を強く感じられる時があり、英語で演じている美波さんがMINAMIさんに見え、MINAMATAとダブってしまう時がありました。些事ですが。それも映画です。ドキュメンタリーでも作家の視線が入りますから。

映画の物語の進み方は駆け足で進む印象です。水俣病が日本の戦後最大の公害の一つとして知られているため余分な説明を避けたのだと思いますが、事実の流れを大雑把でも知識として掴んでいないとついていけない、また事実関係との整合性はどうか?と思う場面がありました。主題である写真家ユージン・スミスがジャーナリストの視線から真摯に被写体と向き合う姿勢がていねいに描かれ、自分自身の経験と重ね合わせながら鑑賞ならぬ感傷に浸る時間もありました。上村智子さんとお母さんが入浴する写真は何度も見ても涙が出ます。お母さんの優しい眼差しの中で、智子さんがとても気持ち良さそうに湯船に浸っている表情に感動は消えません。

「HIROSHIMA・広島」「MINAMATA・水俣」とのタイトルを付けたのは、「人類が2度と起こしてはいけない悲しい事実をどう海外に伝えていくのか」、一方で「広島、水俣、福島で暮らす人々がこの事実に向い合いながら未来に向かって暮らしをどう創り上げていくのか」、コインの裏表のように切り離すことができない2つのテーマを映画を通して改めて考えてみたいからです。「世界に訴える力」と「住民が地域で生きる力」が重なり、未来に向けての「地域の力」になるのが望ましい。でも「世界に訴える力」が「住民が暮らす地域にマイナスのイメージにつながる」との見方が多数を占めるとしたら、地域の力そのものが減衰するのではないでしょうか。今回の映画が主演するジョニー・デップ自ら製作に乗り出し、撮影現場のほとんどがセルビアなど海外で行われています。日本でなぜ製作・撮影できないのかを考えると、水俣の市民はじめ自治体、日本政府などの「水俣病」に対する向き合いが前進しているというよりも後退しているのではないですか。

集落に溶け込む難しさを改めて思い出します

映画「MINAMATA」から始めましたので「水俣」から。昨年秋に水俣へ初めて行ってきましたが、つい最近、島原・天草など島原湾、八代海周辺を回ってきました。八代海は天候に恵まれたこともあって鏡面のように静かで、北の荒波を見慣れた私には「これが海?湖みたい」と今回も奇妙に映ります。映画では撮影現場が海外だったようですが水俣の沿岸部を彷彿させる海辺で採った魚を切ったり遊んだりと海と共に生活するシーンが何度も現れます。

私はちょっと歩けば海が見える街で育った人間です。潮の香りと「サラサラ」と波と小石が鳴らす音が思い出され、「漁から帰った漁師さんに一匹ちょうだいと言えば、ホラっとくれるんだよな」と友達と遊んでいた頃がよみがえりました。スミス夫妻が海岸の集落に家を借りるエピソードも実感できます。40年近い前に金沢支局に人事異動した頃に体験しましたが、よそ者である「旅のひと」ならではの洗礼が待っています。何度も何度も試されて「こいつなら」となったらようやく本当の試験が待っています。いくつもの”試験”を通過して信頼関係が生まれます。

能登半島の原子力発電所建設計画の取材もそうでした。建設予定地の志賀町で家々を一軒ずつ訪ねて皆さんの胸の内を聞いて回るのですが、初回は挨拶しかできません。当然です。能登弁を理解できない「よそ者」に本音を話すわけがありません。それから能登へ行くたびに志賀町に立ち寄り、家々に顔出しているとようやく話題が深まります。ある日、建設反対のリーダーが「地元の新聞記者に話しても何にもならないが、あんたなら教えてやるよ」と一枚の紙を見せてくれました。地元の町長らと交わした念書です。そこには建設予定地の住民が賛成しない限り、建設しないと明記していました。

企業城下町の難しさ

ある家では志賀町ならでは内情を明かしてくれました。「この地区は男性のほとんどは船員になるので一年のほとんどは家に居ない。原発の建設が賛成か反対かと話し合う機会などない。何事も地区長がほぼ独断で決められる。決めたことは誰も反対できない」。昔から続く封建的なヒエラルキーが歴然として残っています。スピーカーをワゴン車の屋根に装着して反対運動をしている若者に聞いたこともあります。「原発建設が賛成かどうかよりも、建設予定地にあった先祖代々の墓が移されたことを親父が悔しがり、死んでしまった。父親の思いを背負って反対するのだ」。反対理由は様々ですが、お金を払えば解決できるものではありません。志賀原発は計画発表から26年後に運転を開始ました。今は福島第一原発事故の影響で稼働していません。

猫が水俣病を発症するかどうかを確認した小屋

ここから工場廃液が排出された

水俣もチッソの企業城下町です。原発銀座と呼ばれる北陸と地域経済の事情は同じです。チッソの工場、グループ会社は多くの雇用を生み、飲食や運輸などサービス業を含めれば税収も含め市経済の大黒柱です。水俣病に苦しむ集落は八代海に面した海岸沿いに広がり、向かいは天草諸島です。丘陵が海まで迫り農作物よりも魚介類が主食です。水俣病の被害者を支援する水俣病センター草思社の若いスタッフが「当時魚ばかり食べるといっても、どんな生活をしていたのか想像できないですよ」と率直に語ってくれたので、私が育った街のことを話した。「朝採りたての魚やイカを天秤や屋台で売りに来るのを買って食べるのが日常。家族で透明なイカを切って内臓も全て食べる。考える間もないです」。彼は「海辺で生活するってそういうものなんですねえ」と納得していた。水俣病が”発見”された年は私が産まれ年の一年後ですから、水俣だけでなく八代海に面した集落のみなさんも同じ生活だったでしょう。当時はテレビやラジオが普及し始めた時代です。熊本日日新聞が「猫が奇妙な踊りをして死ぬ」と小さい記事で伝えるぐらいで、危機感を募らせる人は少ないはずです。その中でチッソに反旗を翻して、水俣だけでなく、そして周囲の市町村の空気を乱す意見を声を上げるのは容易なことではないです。(右の写真は猫の奇病再現を実験した小屋。水俣病センター草思社の水俣病歴史考証館で撮影)(左の写真はかつて有機水銀を流した百間排水口)

映画ではユージン・スミスが米雑誌「ライフ」に掲載することで海外からの批判の声が高まり、チッソ社長を動かすシナリオで描かれています。確かに日本は海外からの批判に弱いですし、水俣病が「MINAMATA」として世界に知られるきっかけにもなりました。水俣市で乗ったタクシーの運転手さんも「ユージン・スミスの写真で排出口を知ったよ」と話していたぐらいですから、彼の仕事の凄さがわかります。しかし、水俣病の公害認定から補償までの大きな流れは水俣の人々らが激しい闘争に耐えて勝ち得たものです。水俣病の写真についても60年以上も撮影し続けている桑原史成さんはすばらしい作品を早くから発表しています。9月24日付朝日新聞によるとユージン・スミスも桑原さんの写真集を見て1971年に来日して水俣を撮影するきっかけになったそうです。海外への発信力を見ても医師の原田正純さん、宇井純さん、濱本二徳さんらが1972年にスウェーデンで開催された人間環境会議に出席し、これをきっかけに水俣病が世界に知られ、世界の水銀中毒の被害と研究を広めた原動力となっています。水俣市民らの力が水俣を「MINAMATA」として世界に発信したのですが、日本国内では水俣病は公害が残した「負の遺産」として捉えられる人が多く、日本政府も世界の公害防止の先頭に立つことはありません。日本は唯一原爆を投下された被爆国でありながら、核兵器禁止条約を批准しようとしないこととダブって見えます。

水俣湾のbefore after

水俣市の観光ガイドブックを見ると、有機水銀の汚染土などを浚渫した土壌で埋め立てた「エコパーク水俣」は大きく紹介されていますが、水俣病資料館は中程の9ページ目の「学ぶ観光 体験観光」のコーナーで紹介されている5ヶ所の一つとして掲載されているだけです。すぐ右に並ぶのは「侍街道はぜのき館ろうそく作り体験」です。

市の観光情報ホームページ「でかくっか水俣」で水俣病を次のように記述されています。

「昭和31年に水俣病が公式確認され世界的に知られることになりました。水俣病は、工場排水中のメチル水銀に汚染された魚や貝などをたくさん食べることによっておこったメチル水銀中毒です。水俣湾に堆積した水銀ヘドロを熊本県が14年の歳月をかけて、一部しゅんせつ一部埋立工事をおこないました。その埋立地が現在のエコパークです。エコパークには「環境と健康」をテーマに竹林園、観光物産館「まつぼっくり」、花の里、ソフトボール場、親水護岸などが整備されました。現在水俣市は水俣病を教訓に環境保全に取り組んでおり、資源循環型社会の構築を目指しています」

次の世代を念頭に地域を創り上げる姿勢は当然ですし、観光用のHPです。ただ、日本最大の公害の一つである水俣病がすでに終わったかのような誤解を招く印象は避けたいです。水俣病の認定、補償の問題が完全に終えていないことは広く知られており、現在に続く歴史です。

九州新幹線・新水俣駅で

広島を拠点に中国地方を取材で走り回っていた頃、年齢層に関係なく「広島イコール原爆被爆地というイメージだけで理解されるのは残念だ」という声をよく聞きました。小さい頃から被爆教育を受けて平和の重要性を理解しているが、「心理的な圧迫を感じる」と打ち明けます。被爆の事実、核兵器廃止を世界に発信し続けることが大事と分かっていても「今の広島をもっと知ってほしい」と続けます。自動車メーカーのマツダをはじめ製造業、サービス業、例えばお好み焼きソースで有名な「おたふくソース」やカルビーが誕生した土地です。「瀬戸内の美味しい魚や農作物、日本一の生産量を誇るレモンなど幸福感をたっぷり味わえる広島があることを知ってほしい」「被爆を超えて昭和、平成、令和と未来を創造し続ける広島を見てほしい」。現在はコロナ禍で訪日観光客は下火になっていますが、海外旅行客が訪れる地として今や東京、京都と肩を並べる人気を集めています。人類初の被爆地「HIROSHIMA」を訪れて原爆ドームや広島平和記念資料館で平和に感謝した後、お好み焼きなどを楽しむ観光地「HIROSHIMA」へ転進し始めています。

水俣が「MINAMATA」として知られるのはもう今回の映画で終わりになればと思います。「水俣へ行ってみたい」と世界から人々を集める力とは何かを改めて議論する機会になりませんか。JR九州新幹線の新水俣駅には「環境都市水俣にふさわしいクリーンな駅づくりをめざしています。お客様のご協力をお願いいたします。(新水俣駅社員一同)」と書かれたポスターが貼られています。世界は地球環境といかに共存するかに目覚めたばかりです。水俣には公害の歴史と向かいながら地域を創造する経験と可能性がありまます。それを世界に向かって発信すれば、世界は必ず注目します。水俣は「MINA MATA」ですから。ぜひ多くの市民が共有する「願い」を現実にしてほしいと思います。

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