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Hiroshima・広島、Minamata・水俣、そして Fuku・島(その3)東日本の海岸線は2ヶ所で分断されている

みなさんは、車に乗って茨城から福島を抜けて三陸に向けて北上したことがありますか?

本州が2回分断されている、それとも二つの非連続線が引かれているのを感じるはずです。最初は福島県の浜通り、2回目は南三陸町、大槌町など三陸地域。東日本大震災で発生した大津波、津波などで原子炉を制御する電源が停止して起こった福島第一原子力発電所事故。東北の太平洋岸は広範に甚大な被害を受けました。コロナ禍が広がる以前まではマイカーで海岸線に沿って実家の墓地がある青森県まで定期的に北上し、車中泊なども使って立ち入り可能な場所に行きました。残念ながらこの一年以上はコロナ禍の影響を考慮して訪れていません。ですが水俣、広島に続けて「福島」について書きます。

大熊町の坂下ダム近くの事務所

大熊町の坂下ダム近くの事務所

常磐道を走り、福島県内に入ると周囲の風景と空気が変わります。道路上の標識には放射線量のカウンターが設置され、福島第一原発が迫っていることを感じます。サービスエリアに入ると、放射線量をインターチェンジごと示す映像画面が掲示されます。双葉郡の各町の子供たちの絵や「ふたばはひとつ」と書かれたポスターなどを目にします。高速道を降りて双葉町や大熊町に向かうと、帰還困難区域の看板があちこちに立てかけられています。「この区域に入るなら許可をここで得て」という施設もあります。ゲートには放射線に対して完全防御の警備員が立っています。通行できる道を走り、大熊町、浪江町、飯舘村などに着くと震災直後そのままの状態で時間が止まっているかのような家々、施設を見かけます。ガソリンスタンドなどはもう営業できないと判断して閉鎖、そのまま放置され朽ちてしまった施設も目に入ってきます。復興工事が進み、帰還困難区域の解除も進み、人が戻っています。浪江町のようにまず町役場を中心に町の機能を再起動。時間をかけてコンビニ、スーパーを開設し、町が少しずつ町に戻っていきます。しかし、人の息遣いを感じる場所は多くありません。帰還できる将来に向けて建屋を清掃・修理を終えても人影は見えません。夕方になれば、猪が走って道路を横切ってきます。「オッと車とぶつかったら、板金修理しなきゃ」とハンドルをちょっと切ります。双葉郡などの現況や風景はテレビニュースやドキュメンタリー映画などで視聴しているでしょうから、これ以上詳しく描写しません。明確にいえるのは、浜通りの海岸線が人間が生活している地域と生活できない地域が断続的に線引きされていることを実感するはずです。その非連続な状況は、日本の福島原発を巡る日本政府と福島県民、福島県以外の日本国民それぞれに傷痕として刻まれた断層の存在を感じさせます。(写真は大熊町の坂下ダムの事務所)

私は北海道と青森県で生まれ育ちました。東北地方の海岸線で育った人はみなさん同じ経験を積んでいると思いますが、地震と津波の怖さを機会あるごとに小中高の授業を通じて教えられます。私自身、中学校時代に授業中に大地震に遭い、木造校舎がゆっくり傾いていく中で同級生のみんなと避難した体験があります。校庭まで逃げてきて気づいたら、多くの生徒の右手は鉛筆を握っているのです。地震の瞬間に握っていた鉛筆のことを忘れて慌てて避難したからなんでしょう。「みんな、鉛筆をを握っているよ」と笑い合ったものでした。自宅へ帰ると家の中はちゃぶ台を引っくり返した状態。母親は呆然と横倒しになっていたテレビの横に座っていました。

高校時代は青森県から宮城県までの海岸線、いわゆる三陸を自転車に寝袋などを積んでキャンプしながら南下しました。今でいうツーリングですか。国道45号線にはまだ砂利道が残り、ちょうど舗装工事をしている時代です。想像できますか?パンクを何度も経験し、手直しして走りました。岩手県の普代ではふと海岸に降りてみたいと思い、きれいな海面に辿りつたいのは良いのですが、そこから北山崎までの直線距離2キロ(目測です)ほど自転車を担いでのぼるハメになりました。海面からの高低差を含めれば2キロ以上の距離を自転車で駆け上り駆け下り、時には背負って夕方に到着しました。今流行のMTBを40年前に体験しました。ようやく絶景の北山崎の観光地に到着した時はもう薄暗くなっていました。キャンプ禁止の駐車場で無理やりお願いしてテントを張りました。砂利道の国道、遊歩道という名の山道を自転車のハンドルとブレーキを握り続けた結果、握力を失ってしまい、自炊の夕飯を食べる箸を握れず近くのレストランにスプーンを借りに行った苦い思い出もあります。

田老町の防潮堤が壊れた。

その後も南下を続け、田老町で二段構えの防潮堤、海岸線沿いに松林が続きます。暗くなって松林の中にテントを張り、砂浜から響いてくる石ころとさざなみの音を聞きながら夕飯を食べる時間が一番気に入っていました。不思議なことに帰りも自転車で北上して自宅に戻ったのですが、帰りの記憶がほとんど残っていません。地震に備えた防潮堤や松林など自然災害に対抗する「人工の風景」に驚き続けたからでしょうか。しかし、東日本大震災はあの風景をすべて消し去りました。(右下写真は津波で破壊された防潮堤の工事現場、現在は完成)


福島・浜通りの原発地域への取材も実は高校時代がきっかけです。同級生に六ヶ所村から来た女子生徒がいたのですが、いつもはとても優しい彼女がむつ小川開発や日本原燃核再処理など大規模開発の話題になると「私は絶対に開発を許せない」と厳しい口調で言い切るのです。
六ヶ所村は国からの大規模プロジェクトで村が二分する歴史を繰り返していました。彼女は開発によって見たこともない大金を目の前にした村民がギャンブルや訳のわからない話に惑わされて財産を失った悲劇を見たそうです。いつか原子力プロジェクトの怖さをしっかりと見ておきたいと思ったものです。幸運にも新聞記者になり、これまた幸運にも原発銀座と呼ばれた北陸地方の支局に赴任。そして6年後には3度目の幸運が重なり、電力などエネルギー産業を取材する担当として福島を含めて全国の原発立地は取材することができました。震災前の福島原発と周辺地域を何度も見聞できたのは貴重な経験でした。

こんな育ち方をしましたから、福島の出来事はとても身近に感じますし、明日自分たちが体験しても不思議はないと思っています。想像を絶する大津波、予想もしない原発事故、誰もあり得ないと考えもしなかった福島の今の風景がどうなっているのか。そしてどう変わっていくのか。福島の浜通りに出向き、現地を目撃して現地の空気を体感しないわけにはいきません。

福島を今回のタイトルで「FU KU・島」と表現したのは、広島や水俣と違う時間軸がまだあると感じたからです。とても残念ですが今や「FUKUSHIMA」は「HIROSHIMA」と並ぶほど世界で知られています。しかし、福島県には人々が住み、今後も避難先から戻る人がいます。原子力発電所の事故として歴史に残る「FUKUSHIMA」を世界に訴える重要性に変わりはありませんが、同時進行で住民が暮らす「福島」をこれから創りあげていく段階です。「MINAMATA」と「水俣」、「HIROSHIMA」と「広島」と分けて考えられるほど”歴史”になっているわけではありません。「FUKUSHIMA」「福島」が別途で使い分けられるほど、まだ情報も発信していません。

むしろ「FUKUSHIMA」と「福島」が問われるのはこれからです。例えば汚染水処理問題。2021年4月、政府は東電福島第一原子力発電所から排出される放射性物質を含む130万トンの処理済み汚染水を福島県沖に放出する計画を承認しました。水は原発の核燃料を冷却するために使用されており、放射性物質のほとんどを取り除いていますが、トリチウムなどが残っています。2年後に放出する予定です。この汚染水が放出されれば、せっかく福島県沖の漁業が試験操業から本格操業へ移行する段階に来たにもかかわらず、水揚げした魚への不安が再び広まり、多大な風評被害が発生します。

経済産業省によると、福島第一原発の処理水約130万トンに含まれるトリチウムは約860兆ベクレルだそうです。震災前は年間約2.2兆ベクレルを海に放出していました。単純に数字を比較するとどっちが多いのかなどの誤認を招きそうなので避けますが、国内外の原子力施設と比べると突出して高い数値のトリチウムを排出するわけでもないようです。韓国や中国などアジアの周辺各国から汚染水の排出を非難する声が出ていますが、今問われるのは日本政府も含めて汚染水を放出するに至った過程と判断、そしてそれでも安全であると結論付けたデータを明らかにして、福島県の漁業者のみなさんが継続して操業でき、県民のみなさんが安心して暮らせることを情報発信することです。海外に信頼できる福島県であることを発信するのが「FUKUSHIMA」とするなら、地元住民が安心して生活できることを確信させるのが「福島」であると考えます。政府は東京電力が風評被害の防止に努力するよう指示ているようですが、電力会社と一体で原発を推進してきた政府がもっと能動的に風評被害や現在の安全状況を国内外に発信していくのは義務です。

「広島」は「HIROSHIMA」を十分に意識して映画を製作したことがあります。1953年、広島県教組、企業らが資金を提供して広島市民が8万人以上もエキストラとして参加した映画「ひろしま」を製作、1955年のベルリン国際映画祭で長編映画賞を獲得しています。福島は「FUKUSHIMA」と「福島」がそれぞれ別の顔を持って独り歩きする前に、分断・非連続となってしまった現状を再び連続した日本列島に戻す「フクシマ(FUKU・島)」を創造し、国内外に対し福島第一原発事故から克服した福島県を発信して欲しいです。どんなことがあろうとも福島の顔はひとつです。それが克服の証です。

 

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