浪江町に戻った輝き、日本の「地方」も照らせるか (その1)
5時を過ぎていたましたが、道の駅で近く開催する音楽イベントが開かれるのか、女性ボーカルがバンドの人たちと一緒にキーボードを弾きながら歌う予行演習をしていました。来客数を増やそうとイベントを計画しているのもすばらしいです。時計は午後6時を過ぎていましたが、道の駅のどのコーナーやイベント会場でも来客数を増やすためには手は抜かないという意思を強く感じました。
浪江町は7年前から毎年、訪れています。といっても昨年はコロナ禍などもあって諦めましたので2年ぶりです。実は初めて訪れたのは40年ぐらい前です。きっかけは原発先進地域である福島県の実情を取材するためでした。当時は新聞記者3年生として石川県の金沢市を拠点に北陸経済を中心に取材して記事を執筆していました。当時の北陸は石川、富山、福井の3県とも主要産業は観光、農水産業です。日本経済は高度経済成長を終え、先行きに不安を覚えていました。10年も経たないうちに誰も予想もしないバブル経済が待ち構えていたにもかかわらず、北陸のみならず日本の「地方」は過疎が深刻化し、地方での産業振興が喫緊の課題となっていました。北陸では福井県や石川県では原子力発電所の建設計画が列を並ぶように浮上していました。
福島県は原子力発電所の建設が最も早く進んだ地域です。福島県というよりは浜通りという表現の方が正しいですね。その浜通りでどう原発計画を自治体や住民が受け止め、結果として増設の選択をしたのかを知りたいと考え、福島第一・第二原子力発電の立地地域である浪江、双葉、大熊、広野、楢葉各町の地域を町政はもちろん、地域から生まれた原発関連の企業などを取材しました。その後、東京電力などの電力・エネルギー産業を主力に取材する担当も務め、地域経済と原発計画の関連をずっと追いかけてきました。東日本大震災による福島原発の事故は以前の原稿で書きましたが、30年も前から可能性が予期された事案でした。テレビで水素爆発のシーンを見ながら、「30年以上も前に炉内への海水注入などを警告している人がいた」と思い出して涙が出る悲しさを覚えています。地元住民の皆さんにはとても失礼と思いながらも津波、そして原発事故によって帰還困難区域に指定された浪江町など浜通り地域のその後を定点観測したいと考え、東京勤務に戻ってから定期的に浜通り、三陸などを毎年クルマで縦走したのです。
浪江町には確かに人が戻っています。町役場すぐそこのイオンを覗いても多くの買い物客を見かけますし、何よりも驚いたのはイオンの向かい側にとても立派なホテルが出来上がっています。これまでは宿泊できる施設がなかったこともあり、毎年訪れても浪江町には長い時間を滞在できませんでした。今回は隣駅の双葉駅が10年ぶりに復活。コロナ禍が収まり今がチャンスと思い、電車で浪江と双葉の両町を訪ねることにしたのです。そして念願だった浪江町に宿泊して、居酒屋で一杯飲もうと決めていました。
◆ 申し訳ありません。また原稿が長くなりました。次回に続きます。