衆院選「賃上げで経済成長」の唱和 産業政策の貧困が浮き彫りに
衆院選挙の真っ最中です。週末の日曜日は投開票。先週末の日曜日の参院補選2選挙区では山口で与党が、静岡で野党が勝利しました。1勝1敗の五分に見えますが、山口は林芳正氏の衆院への鞍替えに伴う補選ですし、当選した北村経夫氏は元産経新聞政治部長です。かつて産経新聞社内に安倍晋三事務所があると噂されるほど親密な関係にあるのですから、当然安倍元首相の応援によるテコ入れで自民党の山口勝利は確実でした。静岡も前職は自民党議員。前職の静岡県知事選への立候補に伴う補選ですから必勝が前提でしたが、敗北しました。静岡県知事選は中央リニア構想も大きな争点でしたので、衆院選挙と同じ延長線にはありませんが大きな痛手です。有権者は冷静に候補者を見詰めている証拠です。
衆院選挙の論戦はマスメディアやネットニュースで多く取り上げており、今さら書くこともないと考えていましたが、与野党党首の選挙演説を聞いていると一種の貧困さを感じざるをえず、再び遠吠えすることにしました。あえて書きますが選挙公約が必ず実行されると期待しているわけではありません。選挙公約を通していかに現実と政策が乖離しているかを浮き彫りにし、結果的に選挙後の日本経済が着実な回復軌道を歩むのか、それとも右往左往して目の先の対処療法に終始するのか。考えるきっかけになれば幸いです。
貧困の第1点は「賃上げで消費を拡大し、経済成長する」。ウケだけを狙った発想の貧困さです。表現の違いはあれ、主な与野党は賃上げできる政策を実施し、日本経済が成長して得た富をより公平に分配できるようにすると強調しています。国政選挙ですから、国民が切実に受け止めている所得増、勤労者にとっては賃上げを最優先にあげるのはうなずけます。企業が獲得した利益を勤労者らに配分すれば個人消費は活気づき、経済成長を押し上げる力になる。そして賃上げを継続するためにも経済成長を押し上げる政策を実行する図式でしょうか。その政策として税制改革、消費税の減額あるいはゼロなどが掲げられますが、与野党を問わず優秀なスタッフを抱えながらどの程度の実現可能性を想定しているのでしょうか。
ここで第2次安倍晋三政権が始まった2012年から終焉する2020年までの8年弱の間を振り返ってみます。
まず実質賃金。2015年を100とすると12年度は104.5、20年度98.7となり、この8年間で5.6%減少しました。同期間の名目GDPは500兆円から538兆円に増えています。企業のいわゆる内部留保(企業会計上は利益剰余金)は304兆円から484兆円へ増加しました。この数字の列挙で比べると、経済成長している中で実質賃金が目減りしているのは企業が給与を払う代わりに内部留保に回し、溜め込んでいる姿です。この論理を掲げて演説している党首は何人もいます。
しかし、物価変動分を名目から差し引いた実質GDPで見ると眺めは変わります。12年度は518兆円、20年度は529兆円と11兆円しか増えていません。20年度はコロナ禍の影響を考慮する必要がありますので、日本経済の地力を見る上で直前の期間を参考にすると18年度は554兆円、19年度も554兆円と横ばい。コロナ禍の打撃で20年度は実質成長率は前年度比4.6%減と大幅に落ち込みました。内部留保は企業がため込んだ利益と理解されますが、現金だけでなく株式などの含み益なども取り込んだ会計上の利益です。懐からスッと出せる現預金ではありません。この期間は日経平均が8000円台から2万円を超える水準にまで引き上がりました。株式などの含み益は会計上は膨らみます。実質GDPの増額分11兆円よりも内部留保が180兆円も増えているのは、景気の先行きを厳しく予想する企業が万が一に備えて会計上の財務力を拡充しているからです。
日本のGDPの成長率は2012年度から20年度までを見ると、2%を記録した2013年度以外の年度は2%以下、20年度までの8年間は1%以下が5回記録されています。コロナ禍の打撃が加わっているとはいえ、自然体の日本経済の成長余力は弱っています。
この寂しい日本経済の風景の中で、賃上げ、そして個人消費をエンジンとした経済成長の可能性をみます。GDPに占める個人消費の比率は53%程度です。仮に2020年度で試算すると、物価変動分を差し引かない名目上の個人消費は285兆円。賃上げが個人消費にどの程度寄与するかを試算する方程式はいくつもあり、正確に試算するのはとても難しいのは承知の上で点検を進めます。過去にSMBC日興証券が試算した例を参考にします。賃上げ率が2.5%の場合、個人消費は0.2%上昇と推測しています。これは賃上げ分の増額の一部を預金などに回すためで、全て個人消費に算入するわけにはいきません。
連合は来春闘で4%の賃上げを要求することを決めましたが、仮に実現した場合はどうなるのか。2.5%で0.2%上昇の寄与ですから、単純計算すると4%だと個人消費への寄与は0.32%上昇。これを285兆円にかけると、1兆円弱増えます。ざっくりした試算でなのである程度の誤差を加算して寄与率を倍増させます。賃上げ4%アップで寄与率を0.6%と設定すると、1.7兆円。名目GDPは529兆円と足し算して531兆円とします。年率0.4%弱の成長です。
20年度は4.6%マイナスですし、21年度は年後半から回復軌道に入るでしょうから、来春闘の賃上げが22年度に加わればそれなりの成長率が期待できます。ちなみに厚生労働省の試算による労働分配率はこの10年程度は全産業で60%半ばから70%を推移しています。
しかし、裏返せば企業の支払い能力が持続しなければ、賃上げは短期間で終わってしまい、個人消費が主導する経済成長は終わります。内部留保でため込んだ484兆円を活用すれば10年ぐらいは4%上昇を維持できる気もしますが、最近の賃上げ結果は2%台ですから4%の水準を維持するには先行きの景気回復観がかなり改善しない限り、思い切り吐き出す覚悟が求められます。税制で強制的に引き上げたら労働分配率は80%程度まで引き上がるのでしょうか。苦しくなったら企業は人員整理に踏み切ります。
賃上げだけで経済成長の持続は不可能です。そこで第二の貧困は「産業政策」です。賃上げによる経済成長と分配を促進するために必要なのは、企業が先行きに自信を持って人材と設備などに投資する経営環境を創出することです。賃金支払いはコストではありません。企業経営の視点に立てば利益を創出する投資の一つです。他社に負けない技術、新製品を創出すれば、収益は上昇します。長時間同じ作業を繰り返し、賃金を抑えるブラック企業は短命で終わる時代です。進歩がなければ他社がすぐに追いつき、追い越すからです。
日本の産業界は1980年代に世界に冠たる製造技術と優秀な労働者という称賛の声にのぼせ上がってしまい、中国など新興国に追いつき、追い越されても「日本はまだ優秀」との勘違いから覚めることができません。自らの未来に向けて何に投資して良いのか自信を持てず、目の前に見える不安に脅迫されたかのよう内部留保を積み上げ、労働分配率が停滞するという結果を招いてしまっているのです。とりわけ資本金10億円以上の大企業は労働分配率が20ポイント程度も中小企業よりも低く、その気になれば支払い余力はあります。
安倍政権が掲げたアベノミクスの結果という主張する向きもあります。個人的意見としてアベノミクスにエコノミクスの「ミクス」がついていますが、経済学に相当するとはとても思えません。経済学はあの程度の政策で理論建てされるほど貧困ではないのです。
産業政策といえばイノベーションを生み出すことと思われがちです。しかし、米国を見れば簡単にわかりますが、GAFAに代表されるイノベーションの結果は富裕層と貧困層の格差拡大を明確にしているだけです。産業政策はイノベーションの一語で表現される枠を超え、既存の中小企業にも網がかかる視野で考え、日本経済の産業構造をどう変えていくのかまで踏み込むものです。
第三の貧困は「未来へのデザイン」です。もう説明の必要はないでしょう。少子高齢化、産業革新の遅れ、移民・難民への対応など目の前には難題が並んでいます。地方の衰退と並走して加速する人口減は中途半端な政策など吹き飛ばす衝撃を持っています。例えばここ数年、GDPが豊さの尺度として正しい指標なのかと存在の価値すら疑われてきています。衆院選で連呼される成長とは何か?「経済成長は何を尺度にするのか」「幸せとは何か」10月26日に初会合が開かれた「新しい資本主義実現会議」で継続して討議してほしいテーマです。
しかし、衆院選で言葉の遊びのように披露される政策提案では議論にもならない印象です。未来をどう創生していくのか。このデザインが目の前になければ政策論議はできませんが、残念ながらどの党も示してくれません。
冒頭の写真は米国西海岸にあるスティーブ・ジョブスさんが住んでいた家です。庭にリンゴの木が育っているのが見えます。リンゴの木を植えた意図は分かりませんが、成功と失敗を繰り返しながらアップルを世界企業にまで育てた想いが込められているに違いありません。
今の日本に問われているのは、「どんな日本の未来をめざすのか」というグランドデザイン。そして「日本を革新するリンゴのタネをいかに手にするか、そしてどう育てるかを議論し、育つ土壌になるように肥料や手入れをどう加えていくのか」という具体的な産業政策です。「実ったリンゴをどう分けるのか、そのリンゴを食べれば満腹になり、リンゴの木が育てばもっとお腹が膨らむ」との夢を託してリンゴの木を眺めているような空論を交わす時間はありません。「とらぬ狸の皮算用」と笑って済むのは衆院選挙の期間だけです。