宇沢弘文がランニングシャツに短パンで走る AIに翻弄されず自らの知を信じる姿
「大学時代、宇沢弘文がランニング姿で走っていたのを見ましたよ。ブ〜ンって感じで駆け抜けていくんです」。東京大学出身の後輩が苦笑しながら、教えてくれました。新聞記者として自動車産業を取材している時でした。
走る目的は自動車批判でなく健康のため
クルマが排出するCO2やススなどは、大気汚染や温暖化を引き起こす主因とされ、自動車メーカーは環境に配慮したエンジンの開発を急ぎ、その成果を新車発表時に大きく喧伝。実際、新車の売れ行きを左右しました。トヨタ自動車が1997年に発売したハイブリッド車「プリウス」がその代表例です。もはや現代生活で欠くことができない自動車ですが、交通事故、公害を引き起こし、今は地球温暖化を招く元凶のひとつと目されています。自動車はこんなに必要なのか。この議論は絶えません。
長年、自動車産業を取材していると、東大教授・宇沢弘文先生の著書を避けて通ることはできません。1974年に出版された「自動車の社会的費用」は、とことこん経済学そのものの内容でしたが、経済、社会生活の主軸となっている自動車が生み出すメリットとデメリットを考察する視点が素晴らしく、ベストセラーとなりました。
1台当たり年間200万円。宇沢先生が試算した社会的費用です。交通体系の中核である自動車が安全に機能するためには道路や歩道の建設、大気汚染などの公害対策など多くの投資が必要で、もし自動車ユーザーが負担するとしたら年間200万円にもなるそうです。個人で負担するのは事実上、不可能ですから、国、言い換えれば国民全員で負担して自動車社会を維持している。果たしてメリットはあるのか。宇沢先生は問いかけました。
頭でっかちの経済学者ではない
自動車社会に対する批判と受け止められたせいか、宇沢先生は自動車を利用しないという伝説が広まっていました。日常の移動は、ライニングシャツに短パンに着替え、リュックを背負って走っている、と。冒頭の目撃談がいわゆる都市伝説として広まっていたため、私も信じていました。しかし、本当の理由は健康のためだったそうです。持論を体現するため、自動車は使わないといった「頭でっかちの先生」ではありませんでした。自分自身の考えに従って、ランニング、自動車や電車など交通を使い分ける。「優れた知能」とは、こういうものだと教えてくれます。
最近の人工知能(AI)を巡る話題を眺めていたら、宇沢先生のランニング姿が目に浮かんできました。AIに翻弄される現代の社会をどう論じるのか。聞いてみたいです。とりわけ生成AI、とりわけChatGPTは、対話しながら質疑応答し、その内容の完成度も高いため、あたかも友人と勘違いして信じてしまう怖さが伝えられます。直近でもAIが作成したレベルの低い画像であったにもかかわらず、米国防省の近くで爆発が起こった偽画像がネットで拡散しました。
AIは機械ですから、24時間眠らず疲れを知らずに学習し続けることができます。生きている人間は真似できません。優れた機能、役割を評価する一方、AIを考案した人間の社会でどう利用するのか。
宇沢先生ならAIをどう論じるのか
あるべき社会をしっかりと考え、その道を着実に進む勇気を持ち合わせながら、夢に酔うことなく現実を見つめる。例えば自動車なら、利用するメリットがあるなら使えば良いのだし、無駄なコストと判断したら、その時は自ら走れば良い。人間には自ら考え、判断できる知能が備わっているのですから。
宇沢先生は「社会的共通資本」という考え方も示しました。自然環境、道路や水道など社会的なインフラ、教育、医療などは社会全体で共通した財産として管理する経済学を提示しました。社会の共通の財産として、社会的な基準に従って管理されなければならないと言います。教育は未来を創る子どもたちの才能を引き出して伸ばし、医療は病気やけがの人を助ける。だれもが人間らしく生活するために必要な役割と機能です。国が管理基準を決めるものではなく、まして企業が決めることでもないのです。
人間の体を感じて考える
AIも同じです。社会の財産としてどう利用するのか。AIに夢中な頭脳に水をかけて一度冷ました後、自分の頭で考える。やはりランニングと短パンで走る姿になって、人間の体を感じて考えなければいけないのかな〜。