「大熊町と言えないのが悔しい」浪江町に輝きが戻り、大熊町はまだ・・
力のある言葉を久しぶりに聞きました。小泉良空さん。語り始める言葉ひとつひとつに信念がこもっています。どの言葉にも10年の歳月の間、悲しみ、迷い、不安、そして確信を経て話す言葉を選んだ意思を感じます。言葉そのものが背負う重みと価値を改めて思い知らされました。
「語り部」の言葉の力に感動しました。
小泉さんは訪れた日午前の東日本大震災・原子力災害伝承館の語り部として登壇しました。震災当時は中学生と言いますから、2021年11月現在は20歳代後半です。ご本人に名前をブログに掲載しても良いですかと確認したら、「いつも自分の考えをどんな場でも同じように伝えていますから、良いですよ」と答えていただき、了解していただきました。
このサイトを仕立てる際、実名か匿名にこだわることはしないと決めていました。内容そのものが重要で、あの人は有名だからという理由でネットで拡散する傾向にはちょっと抵抗があります。しかし、小泉さんがお話する内容は匿名で伝えるのはむしろ失礼と考え、敬意を表してお名前を明記することにしました。
小泉さんは30分ほど写真や思いを説明したスライドを使って一人語りします。以下は要約になります。
「東日本大震災当時、大熊町に生まれて育った中学生2年生でした。原発の知識はありません。というか原発はあって当たり前の存在でした。福島第1原発が被災し停止した時の思いは爆発です。でも、それは原爆のイメージを思い浮かべ、水素爆発などとは違います。大熊町の住民も原発に関する知識は不足していました。町から避難命令が出た時も家族全員で明日、明後日には帰れると思っていました。一緒にいた消防隊員からは『帰れない』と言われましたが、そんなことはないと思っていました」
「ニュースで原発の被害、避難について流れていることが自分が生まれ、育った大熊町で起こったことと思えません。4月になれば帰れると思っていましたし、帰れないとは信じきれませんでした。避難先は田村市、そして会津若松、いわきと移りました。浜通りの冬と会津若松の冬が違うのです。降雪量が全然違います。私が大熊町の実家に戻ったのは、2回目の帰宅が許された時でした。(写真を映し出しながら)家の中は避難した当時のまま残っており、やっぱり落ち着きます。しかし、家の周囲に建てられたバリケードを見て帰還困難区域に家がある現実を知りました」
「私が知らない間に祖父が家の解体を決めていました。いわきに新しい家を建てることに強い抵抗があり、納得できませんでした。写真を見てください。田に木が生えています。手入れをしないと木がはえるんです。驚きました。実家に戻ると、家の中は3月11日のまま時間が止まっています。不思議な感覚でした」