ほぼ実録・産業史 自動車編 2 ルソーが売りに出される。えっAMWも?
「おい、知っているか?ルソーが売れに出されそうだぞ」。織田自動車の親しい経営幹部がボソッと教えてくれた。「ドイツ自動車がオンダを買収提案したい」というおいしいネタを聞いたばかりだったが、そう時間を経ずに今度はフランスの自動車メーカーの極秘情報が舞い込んだ。
「へえ〜、ルソーかぁ。ブランドは魅力的だけど、経営状況や労組などややこしい問題が多くて、どこも手が出しにくい案件だね」。織田自動車の彼は苦笑しながら、「織田に買収して欲しいみたいだけど、とても面倒くさいことになりそうなのでウチは手を出さないからね。勘違いしないでよ」と手を振る。
私も「驚きよりも、買い手はいるのか?」と率直に心配した。頭の中では「ドイツ自動車がオンダを欲しいと思うほど日本の技術を欲しがっているぐらいだから、ルソーならなおさら日本車とがっちりと手を組みたいだろうなあ」。そろばんの暗算のように過去取材した記憶の珠(タマ)がコツコツと音をたてて弾け続け、いくつかの候補が浮かび上がった。
ルソー自動車はフランスを代表するメーカーだ。もう一つの仏大手自動車メーカーのブドー自動車とともにフランスらしい優美なデザインとしなやかな走行性能を持つ自動車を生み出してきた。ボディーデザインをはじめ車内の居住性など日本車が真似できない経験とノウハウを持ち、パリの石畳を走って鍛えられたサスペンションはまるで車輪と道路が密着しているかのように気持ち良く機能する。艶かしい走りが個人的にとても好きだ。
しかし、経営は常に仏政府の影がちらつく。1898年に創業したフランスを代表する名門企業は第二次大戦後の1945年、対独協力の責任を問われて国有化された。以来、多くの部品メーカーなどを抱える製造業として産業のすそ野が広く、雇用効果が大きいため、国の産業・労働政策に翻弄され続けていた。成長する米国市場を求めて1979年に提携関係にあった米国のアメリカ自動車を買収したものの、米国市場で日本車との競争に敗れて1987年に米国のミシガン自動車に売却し、米国市場から撤退している。その後もスウェーデン自動車と提携を模索しながら公団から株式会社へ民営化する道を開いたが、スウェーデン自動車との合併案が仏政府や両社の労働組合などから反発を受け、合併は破談。法律上は株式会社でありながら、一部株式を保有したり手放したりと揺さぶりをかける仏政府の介入を意識せざるを得ない負の遺産を抱えている。当時のレブ会長は仏を代表する石油や鉄鋼トップを経てルソートップに就任した人物。仏政府などとタフな交渉を重ねて鍛え上げた経営手腕で経営収益を改善する一方、魅力的な新車を投入。ルソーは息を吹き返していた。だが、目の前の危機が去っていないことはわかっていた。レブ会長は次の生き残りへの道筋を描き始めていた。
1980年代後半、パリ郊外の工場を取材したことがある。ルソー広報担当者から「工場を見たい、というから連れて行くが、古い工場だからこれがルソーだと思わないで欲しい」と前置きされていたが、増改築を繰り返しているためか、レイアウトや建屋は日本の車両組み立て工場とは別世界を見る思いだった。まるでかつての都心にある遊園地を彷彿させるのだ。プレス工程を終えた後、溶接されて仕上がった骨組みの車体外形はなんと一度天井近くまで引き上げらる。そこで天井に設置されたレールに連結されて次の工程に向かう。ただ、塗装など次の工程はすぐ隣の建屋にあるわけでは無い。日本のデパートで見かけるような連結通路の中を運搬されて一度、建屋外に出て次の工場に向かう。空を見上げると鉄骨のボディーが一台、一台並んで移動する様は現代ならドローン技術で空を飛ぶクルマの風景の先取りしたかのように映るかもしれまない。いずれにしもて日本の工場では見られないシーンだった。
工場の床には所々でビラが散乱している。ビラは「労働状況の改善」を求めているらしい。日本の工場はゴミひとつないのが当たり前。生産品質は工場の床のクリーン度を見ればわかるとまでいわれる。それが油汚れが目立ち、ビラも落ちている。確かに労働状況は良くない。現場責任者に現況について質問しようとしたら、こちらが手配した通訳なのに翻訳してくれない。「そんなこと聞いたら、怒っちゃうよ。あなた、フランス語がわかるようだから自分で質問しなよ」。その答えは?「私たちが決めることではない」。ルソーの生産現場は世界標準からほど遠かった。
レブ会長に短時間だが会うことができた。だが、ぜんぜん記事にならない。フランスの主要産業である石油、鉄鋼のトップを経験して国営自動車ルソーを率いているだけあって受け答えに隙がない。いわゆるニュースにならない内容に終始する。会社経営者だが官僚答弁そのもの。後日、ルソーと並ぶブドー自動車のカルビ会長にお会いした時は全く対照的だった。気さくに経営戦略を話し、日本のある自動車メーカーと組む可能性まで示唆してくれた。今思えば経営者の個性というよりは、両社を取り巻く経営状況の違いがインタビューの差に表れたのだろう。
余談だが、ルソーの広報担当者は新聞記者からの転職組で、工場取材後に「雑談をしよう」と昼食に誘ってくれた。会社の内情を聞きたかったので誘いに応じたものの、到着したのはパリの高級レストラン。ミュランの星付きだった。何のことはない、日本の新聞記者に対応したとの理由で普段は足を踏み込めないレストランに行く口実に使われただけだった。業績はボロボロだというのに、これも国営会社ならではのお役所体質の表れか。
冒頭の織田自動車に戻る。ルソーの経営状況、そして仏政府との複雑に絡みあった状況を知る織田の幹部は無関心を装っていたが、実は織田は日本と欧州の自動車摩擦に備えて奇策を練っていた。それに気づくのはだいぶ月日が過ぎてからだったが、詳細は後ほどに。
織田自動車の考えを知ってか知らずか、百戦錬磨のレブ会長は日本車メーカーに秋波を送り続ける。今度は日本の自動車メーカーは知ってか知らずか、次第に欧米の自動車各社との再編の嵐に巻き込まれる構図が浮かび上がってきた。改めてルソーが日進自動車との提携で最終決着を迎えるまでの舞台裏を振り返ると、ガチャガチャと電気音を鳴らしながら金属製のボールが飛び交うピンボールマシンをすぐ横で眺めていた気分だったのかな、とふと思う。
そして1990年代後半は欧米の自動車メーカーが100年の歳月をかけて築き上げてきた産業ヒエラルキーが崩れる兆しを見ることができる。自動車市場は欧米を中心に拡大してきたが、重厚長大型産業の育成に注力した日本が追撃する形で世界に躍り出てきた。そこに東南アジア、中国など新興市場の将来性がようやく目に見えるようになり、アジア戦略の展開が次のステップとして重要性を増してきたのだ。
1996年5月、米ヘンリー自動車がカープ自動車の持ち株比率を25%から33.4%に引き上げて子会社化にすると発表した。ヘンリーは米国の自動車産業、それ以上に世界の製造業のモデルとなるベルトコンベア方式の生産方式を生み出し、特定モデルを大量生産することに成功。20世紀を自動車の世紀に変えた会社だ。しかし、内実は米国至上主義、今風に表現すればアメリカ・ファーストといえるか。米国以外は一等下に見る傾向が強い。1979年にアジア太平洋戦略の要としてカープ自動車に資本参加したものの、内実はカープの創業家出身の経営者を排除したい主力銀行である生友銀行のゴリ押しの結果でもあった。ヘンリーとは日本車メーカーが需要を創造した小型トラック市場向けの車両をカープから輸入する関係があったが、当時の資本参加に戦略性は感じられない。
そのヘンリーが日本車の技術を足がかりに小型車生産が得意なカープを子会社化する戦略に舵を切る。「コスト、品質管理、環境技術を優位に進めたいなら日本車の取り込みが欠かせない」との著名自動車専門家のアドバイスを受けて米国至上主義的な考えを変えたとか。18年後の2014年にはカープ社長を経験したマーク・グリンフィールド氏がヘンリー本社の社長に就任する。ヘンリーがそこまでカープの重要性を理解していたのか、それともグリンフィールド氏の出世欲が優れていたのか、いずれにしても驚いた。その2年後にヘンリーはカープの株式を売却して日本市場から撤退する。やはりヘンリーはいつまでも米国の会社だった。
同じ1996年、ルソーは完全民営化を果たし、自らの生き残りに向けて走り始めた。高級ブランドの象徴といえるドイツ自動車は排ガス規制など環境問題を睨んで小型車のαシリーズを発表し、日本車などと競合し始めた。欧州の自動車各社は次の100年は環境の世紀と捉え、新しい自動車メーカーとしての姿を模索し始める。
日本はどうか。自動車トップの織田は1995年、28年ぶりに創業家以外から社長として近田広を選んだ。病気を理由に織田家出身の社長が突然退いたこともあるが、織田は日本経済のバブル崩壊の影響から抜け出せず経営状況が下降曲線から抜け出せずにもがいていた。側から見ていてこのままの経営が続けば織田自動車は日進自動車よりも早く立ち往生するかもという兆しを感じていたが、近田広の社長就任は社長として選択した織田章太郎が予想もしなかった幸運のカードだった。近田広は海外畑が長く、世界の自動車メーカーでその名を知らぬ者はいないとまでいわれた。強いリーダーシップ、言い換えれば親分肌が持ち味の近田社長は積極的な世界戦略を打ち出して再び攻めの姿勢に転じる一方、地球環境問題の関心の高まりを念頭に赤字覚悟でハイブリッドカーの発売を決めるなど環境に優しい自動車メーカーとしてブランドを築こうとしていた。1990年代後半は織田にとっても欧米とガチンコでぶつかる世界の主役として登場した時期でもある。各国の自動車メーカーや政府と水面下で手を握り合い、あるいは蹴り合って世界の自動車需要を奪い合う。近田社長は多少の摩擦は恐れない。織田を世界一の自動車メーカーにするべくアクセルを踏み続けた。
当然だが自動車産業の再編劇は突然、始まらない。その伏線はすでに10年前の1980年代後半に点線のように見えていた。日本車メーカーはようやく技術、品質で世界レベルに追いつき、米国市場でシェアを急速に伸ばし始めていた。その結果、日米自動車貿易摩擦が激しさを増し、重要な政治課題として議論されていた。一方で米国の三大自動車メーカーであるビッグスリーは対抗するだけでなく、日本の競争力を取り込む方針に転換する。世界最大のUS自動車を筆頭に、日本製の自動車部品を調達し始めたのだ。US自動車はアメリカ経営学の教科書に掲載される事業部制を確立したことで知られ、自社ブランドで使用する主要部品はUS自動車傘下の自動車部品メーカーから調達していた。しかし、米自動車メーカーはビッグスリーと呼ばれる独占状態に甘んじてしまう。傘下の部品メーカーは必ず買ってもらえるという安心感に浸り、コスト、品質両面で競争力低下を招いてしまう。かたや日本はカンバン方式やTQC(全社的品質管理手法)を掲げ、欧米に負けない競争力の強化に突っ走っていた。US自動車からみれば、日本製部品を購入すれば日本車に勝てるはずだ。その一方で現地生産する日本車各社の工場で調達する米国製部品の比率を高める戦略を政治力を使って推し進めた。日本車各社は系列部品メーカーの米国進出を促す一方で、米国自動車部品メーカーの調達を増やす方針を明らかにする。全米自動車部品協会の幹部に東京で会った時のセリフが奮っていた。「日本が現地調達を増やさなければ、どんなことが起こるか承知しているのか」。カードゲームに例えれば同じ札でどこまで勝負できるかを競い合う格好だが、欧州ルソーほどではないにしろ、米国自動車メーカーの組み立て作業効率で勝る日本車の強さに変わりはなかった。
自動車の競争力は車両を組み立てるだけでは生まれない。3万点ともいわれる自動車部品で寸分狂わぬ精度と大量生産を両立させる部品メーカーの存在が欠かせない。車両を組み立てる完成車メーカーを頂点とする産業ピラミッドが真の競争力を生み出す源である。その産業ピラミッドを柔軟に変化できる自動車メーカーだけが21世紀もそのブランドを残せる。1980年代後半にようやく身に染みてわかったのだ。100年の歴史を誇っても21世紀は迎えられないことを。
それは米国だけではなかった。米国や日本の車に対して走行性能、品質、ブランドでいずれも圧倒すると信じられていたドイツの自動車メーカーでも足元が揺らいでいることに気づき始めていた。ドイツ自動車がオンダを買収したいと考え始めた10年ほど前の1987年ごろ、ドイツのAMWの株式が売られるとの噂が飛び交った。創業一族のミュンヘン家が株の売却先を探して欲しいと日本の商社に持ちかけたらしい。その理由は何か?「AMWは最新技術の流れから取り残されしまい、このままでは将来の企業価値が期待できない。オンダの技術力を借りて最先端の流れに戻ることはできないか」とその商社筋は明かす。
オイ、オイ、ここでもまたオンダの名前が出てきたよ。