トヨタとキヤノンが交錯する②強さは交雑から生まれる 純粋培養の限界を知る

 収益力、競争力を兼ね備えた強い会社は多くの物語を教えてくれます。その歴史を遡れば、優れた経営者たちが演じる壮絶な葛藤から企業経営の真髄を勉強できます。主役は創業家出身の社長。脇役は生え抜き出身の社長です。創業家が下す数々の試練を乗り越えて社長の座を射止めた人物ですから、刮目に値しますよ。一見、創業家が掲げた経営理念のもとで一心同体のように映りますが、事業基盤が強固になり、事業領域が拡大するにつれて衝突が増え、権力奪取に火花が散ります。

強い会社で演じられた経営者の葛藤から学ぶ

 創業家と生え抜き出身の経営者が繰り広げる闘いは会社飛翔へのエネルギーとして昇華される例が多い気がします。ただ、派閥抗争に明け暮れれば衰退の道を歩むことも。あるいは創業家の権威を背に経営権を奪取し、ワンマン経営を選択する例もあります。末路は孤独な経営者として社史に名を残すだけだと思いますが・・・。

 トヨタ自動車とキヤノンは日本の強い会社を代表する会社です。偶然ですが、事実上の創業が1933年と同じ。トヨタは豊田佐吉さんが創業した豊田自動織機製作所に1933年に新設した自動車部が始まり。トヨタ創業者といえば豊田喜一郎さんを思い浮かべますが、初代社長は佐吉さんの娘婿、利三郎さん。トヨタ入社前に商社で国内外のビジネスを経験し、豊かな人脈を持つ人材として選んだのでしょう。佐吉さんの慧眼です。創業家が出身に固執しないで意思決定できる会社は、その後の歴史が証明しています。

 キヤノンは1933年に創立した精機光学研究所が第一歩。ドイツの名機ライカを参考にカメラを開発した吉田五郎さんは義兄の内田三郎さんと研究所を設立し、産婦人科医だった御手洗毅さんが共同経営者として加わったそうです。第二次世界大戦と重なり、思わぬ事情が起因で初代社長は御手洗さんが就任。結果はオーライ。産婦人科医の視点もあったのでしょう。次代に向けた経営の骨格を構築することに成功しました。御手洗家はその後、御手洗肇さんと御手洗冨士夫さんの社長2人を輩出します。

 トヨタ自動車の創業家経営については何度も取り上げていますので、今回はキヤノンから始めます。

  私にとってキヤノンとの出会いは父親のカメラがきっかけでした。父親は全国を出張する傍ら、飛行機から撮影した富士山全景の写真などを家族に見せて「ほら、良いだろう」と自慢するのが趣味でした。家には大ヒットしたコンパクトカメラ「キャノネット」など2、3台あり、本物のカメラとおもちゃのカメラの区別もつかずにシャッターを押して遊びました。最も思い入れが強いカメラは「FT」。一眼レフで絞り値はF1・2。発売が1966年(昭和41年)ですから、小学生の頃です。

 当時、一眼レフは高級精密機械。父親が不在の時、カメラを操作してレンズを動かして焦点を合わせることに夢中になります。うっかりフィルムカバーを開けてしまい、撮影した写真をパアにしたこともあります。何も知らない父親は「今回の撮影は何も写っていない」とすごく悩んでいました。その顔は今でも忘れられません。本当に申し訳ないことをしました。「FT」は新聞社に入っても使い続け、いつも絞りの切れ味に渋れます。写真部のデスクから「筋が良い」と褒められるほど愛用しました。もう56年近くいつも身近にいます。

初代社長は産婦人科医 既存の経営を打ち破る

 1960年代のキヤノンは、御手洗毅社長が辣腕を振るっていました。日本の光学技術をリードしてきた名門の日本光学工業(ニコン)の下請けを脱し、技術力の底上げに努める一方、電卓、複写機など事務機など新規分野にも積極的に進出します。コンパクトカメラ「キャノネット」を発売し、高級路線を変えようとしないニコンと差別化するブランド戦略にも成功します。「本当はライカやニコンが最高だけど高くて買えない。キヤノンなら機能に満足して買える」。父親のぼやきは当時のカメラ愛好家の多くが抱いていた思いです。

 海外事業も加速します。日本製カメラがドイツのライカなどと競える評価を獲得したこともあって、キヤノン・ブランドを掲げた事務機もどんどん販売します。最大のライバル、ニコンがカメラなど光学製品を主にして、おっとりした企業体質であったのに対し、キヤノンは低価格で叩き合う事務機で戦闘能力を養っています。

 競ったら負けない。この勝負強さが現在のキヤノンを創りました。実際、キヤノン社員は猛烈に働きます。国内でも海外でもキヤノン社員は休みを知りません。それを知っているだけに、1959年に週休2日制を導入するなど、社員の福利厚生に努力するエピソードを知った時はちょっと驚きました。

 御手洗社長が産婦人科医で、技術や営業の現場を知らないから待遇改善に努力したそうです。実力主義と家族主義を掲げ、「Go Home  Quickly 」を実践するよう求めました。社名も「SONY」より先に「CANON」の英語表記を採用。周囲の空気を惑わされずに自身の経営理念を貫く力も、日本企業の中では頭抜けていました。

 新製品開発や営業で猛烈に攻める一方、社員や家族のことも決して忘れない社内の守りを徹底する。同じ光学製品の創業でありながら、現在のキヤノンとニコンの違いにつながったのでしょう。

 1967年の創立30周年、御手洗社長は「右手にカメラ、左手に事務機」と宣言。事業多角化は加速します。2年後の1969年に社名からカメラを省き、「キヤノン」に変更し、改めてカメラからの脱皮を明確にします。そのキーマンは賀来龍三郎さん。1977年、3代目社長に就任した人物です。実は御手洗社長が推し進めた事業多角化は当時、企画課長だった賀来さんが発案したそうです。賀来さんは創業の光学技術を活かしながら、技術開発の幅を広げ、映像、事務機など情報分野を網羅する世界企業に育て上げました。「中興の祖」と呼ばれる所以です。 

 社長就任時は51歳。キヤノンが飛翔する条件とエネルギーはすべてそろっていたといえるのでしょう。財界活動にも熱心で、経済同友会副代表幹事や経団連常任理事を務め、「官主導から民主導へ。中央集権から地方分権へ。企業は社会的責任を自覚すべき」と今も問われるテーマについて発言し続けます。

社長は創業家の係累に拘らない

 キヤノンは新製品開発や営業力に関する積極性から、批判を受ける場面もありました。しかし、賀来社長の存在感はキヤノンをいわゆる日本を代表する優良企業としての認知度を不動のものにしたのも事実です。創業一族の係累に囚われずに賀来龍三郎さんに次代を託した初代社長の御手洗毅さんの懐の深さが今のキヤノンの基盤を創り上げたといって間違いないでしょう。

 しかし、キヤノンのさらなる飛翔を理解するためには2人の個性派経営者を忘れるわけにはいきません。山路敬三さんと酒巻久さんです。次のキヤノンはどんな会社に変貌するのだろうと期待させてくれました。創業家の純粋培養に拘らず、多くの才能と個性に未来を託すキヤノンがそこにありました。

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