日産・ルノーが教えること①自動車を創り続けることとは 自縄自縛から解かれた後、どこへ
ようやくルノーと対等な関係へ
日産自動車と仏ルノーは、ルノーが保有する日産の株式比率を引き下げることで合意しました。ルノーは日産の株式43%を保有していますが、日産はルノー株式15%だけ。1999年に実現した両社の提携は対等を前提にしていましたから、誰が見ても不平等。ルノーは15%まで引き下げ、日産はようやく対等を手にします。世界的な企業連合でありながら、なぜ歪な提携関係が続いてきたのか。日産・ルノーが提携してから24年。多くの教訓を残してくれています。
日産が2023年2月6日に発表した「ルノー・日産・三菱自動車、提携の新たな章を開く」は
こちらから参照ください。
最近の日産はスッキリしていると思いませんか
最近の日産は颯爽としています。自信を持って新車と技術を発表し、いずれも高い人気と評価を得ています。40年ぐらい日産を眺めてきましたが、今がもっとも自動車メーカーらしいと素直に思います。
この30年間を振り返ると、胸が苦しくなります。1990年代、経営再建に試行錯誤している間にライバルとして追いかけてきたトヨタ自動車がハイブリッド車を発売。新車開発でも環境技術でも、そして販売シェアでも大きく差をつけられます。ずっと後方にいると思っていたホンダや三菱自動車が急追してきます、というか日産自ら後退する状況を変えられません。
お金が無いので、ハイブリッド車を自社で開発する余裕なんてありません。なんとか周回遅れを取り戻そうと発売した電気自動車(EV)は話題先行で終わり尻すぼみ寸前に。ところが、今は軽EV「サクラ」の大ヒットもあって日本ではEVのトップランナー。
ハイブリッドからEVへ、まるでオセロ
日産を大きく引き離して環境技術のトップランナーを自他ともに自任していたトヨタやホンダはなんとEVで周回遅れ。まるでゲーム「オセロ」のよう。攻め手と守り手が一気に転じています。これが技術開発のおもしろさ。痛感します。
なによりも新車が素敵!。外観のデザインは他のメーカーと一線を画す先進性が表現され、昭和の「NISSAN」が洗練されて戻ってきたようです。令和の若者が昭和の「シルビア」や「180」を今でも乗り回していますが、ようやく令和の「NISSAN」に期待できそうです。
自動運転もそう。自動車メーカーのみならずアップルやグーグルなど世界の情報技術会社がこぞって開発にエネギルギーを注ぐなか、テスラのような派手な話題をばら撒きませんが、地道にフロントラインで追走する健闘ぶりをみせてくれます。
18番のお家騒動も沙汰止み
日産の十八番である経営の権力闘争も最近は静かなようです。直近では日産再建の立役者であるカルロス・ゴーン氏の追放劇をすぐに思い浮かべるでしょうか。しかし、ゴーン氏へのクーデター劇は過去を振り返れば、一幕すぎません。
1970年代から川又克二、石原俊、塩路一郎らが主役として舞台に入れ替わり立ち替わり登場する悲喜劇を何度見たことか。日産の社長と会長が足を引っ張り合ったり、労組が銀座のクラブから日産の経営戦略にダメ出ししたり。観客席から呆れ果てて眺めるだけなら笑えます。
しかし、日産の従業員の立場なら、笑っている場合ではありません。日本を代表する世界的自動車メーカーに入社したと思っていたら、なんと舞台では観客も目を逸らしたくなる散々な演技が繰り返されます。主役陣が突然、シナリオにないセリフを言い出したり、舞台セットを壊し始めたらどうしますか。日産という会社が潰れる不安が募るだけです。
提携劇には教訓がいっぱい
日本の産業史に残る日産・ルノーの提携はどうでしょうか。フランス政府とルノーによる日産救済劇と思われていますが、その舞台裏を知る人間から見ればまるで違います。このままではお互いに倒産の憂き目にあうしかない自動車メーカーが、それぞれ救済先を探しても誰にも相手にされず、最後に残った目の前の相手と手を組んだ結果に過ぎません。
日産にはお金はないが技術はある。ルノーはお金も技術もないが、政府がお財布代わりになる。両社の強みと弱みを足し算した結果、ルノーが巨額資金を日産に注ぎ込み、歪な資本構成が生まれました。その恩返しとばかりに、日産はルノーと技術協力を深化させるしかありませんでした。
今回の出資構成見直しでカギを握ったのも、日産のEV技術。ルノーが設立するEVメーカー「アンペア」に日産が出資するかどうかが焦点でした。新会社には中国メーカーなども出資しており、日産は技術流出を恐れ、交渉は難航しそうでしたが、結局は資本構成の見直しを優先した形です。
世界の映画史に残る「天井桟敷の人々」を見たことがありますか?ジャン=ルイ・バローら名優が生々しい人間の愛憎、嫉妬を描いています。ジャン=ルイ・バローが演じるパントマイムを見ているだけで、時を忘れます。
パントマイムを楽しみ、読み取るように
1999年から始まった日産・ルノーの提携劇は、まだ舞台準備が整わない頃から観てきました。以来、観客席からその一挙手一投足から何を読み取ることができるのかを考えてきました。
注目していたのは、主役としてヒーローに祭り上げられ、突然犯罪者として奈落の底へ追い込まれたカルロス・ゴーンだけではありません。沈黙を守り続けた日産社員が脇役として固めています。天井桟敷から眺めていただけかもしれませんが、主役、脇役、端役のみなさんが無言で表現したものを見逃してしまったら、もったいない。日本にとって貴重な宝です。
なぜ日産は、あるいはルノーは自動車メーカーとして生き残ろうとしたのか。自動車という素晴らしい機械を創造する喜びを見出していたのだろうか。それとも日本・仏の経済と雇用を支えるために会社存続が最優先されていただけなのか。
自動車メーカーはなぜ自動車を創造するのか
最後は素朴な疑問にたどり着きました。自動車メーカーが自動車を創造することとは何か。そして、ようやくルノーの呪縛から解放された日産は、これからどう独り歩きしていくのだろうか。もし日産がこれからも自動車メーカーをめざすなら、どんな会社に変貌するのだろうか。
せっかくの好機です。日産が24年間、ルノーと対峙しながら残してくれた多くの教訓を改めて読み直してみたいと考えています。