アフリカ土産物語41 南アフリカ ゾーラ・バッド 裸足の天才ランナーの素顔
「Zola back on track, enjoying it」――。2002年1月29日、南アフリカのヨハネスブルクの自宅に届いた新聞の見出しを見て驚いた。1984年のロサンゼルス五輪の女子3000メートル決勝での〝事件〟のあと、世の中から姿を消したと思っていた人物の記事だったからだ。
18歳で出場した五輪で米ランナーと接触
南アフリカに生まれ、17歳で中距離の快記録を連発し、「裸足の天才少女」と呼ばれたゾーラ・バッドさんである。アパルトヘイト(人種隔離)政策への制裁で国際大会から締め出され、祖父の母国イギリスへ移住して市民権を取り、18歳で五輪に臨んだ。
優勝が期待されたが、走行中に接触したライバルの米国人メアリー・デッカー選手が転んだことで憎悪の塊と化した8万5000人の観衆からヤジを浴び、失意の7位に終わり、その後ほとんど消息を聞くことがなかった。
接触はバッドさんの過失ではなかったが、トラックで倒れて悔し泣きする「アメリカの恋人」デッカーさんへの同情が大きかった。金メダルが有望視された1976年のモントリオール五輪はケガで出場できず、80年のモスクワ五輪は前年のソ連によるアフガニスタン侵攻で米国がボイコットし、祖国での五輪を人生のハイライトとして臨んでいたからだ。
英国籍取得でトラブルに
一方、挫折と喪失感を胸に南アに戻ったバッドさんにはさらなる試練が続いた。父がイギリスの新聞社から娘の英国籍取得を働きかけられ独占掲載の権利と引き換えに大金を手にしたことで、自身も「人種差別国家のシンボル」と非難されたうえ、両親は離婚し、父は知人とのトラブルから銃で殺害されたのだ。
「今はどんな心境で走っているのだろう」。実業家のピータースさんと結婚したバッドさんが暮らす南ア中部の故郷ブルームフォンテーンに私は向かった。緑に囲まれた家に着くと、「マミィ」と甘える三人の子どもに囲まれた彼女がいた。そして穏やかな笑顔でこう言った。「この子たちのおかげで私にはもう一度人生があるということを知りました」
今は自分自身のために走る
「レースで走るのはつらかったけど、今は違います。私自身のために喜びを感じながら走っています」。彼女は自宅周辺で毎朝、子どもを学校に連れて行く前に40分間、夕方も日課として走っていたのだ。庭の芝生に出て、走るポーズをしてもらうと、控えめな笑顔を浮かべた。そこには少女時代の脅えきった表情はなかった。
ショートパンツからすらりと伸びた足は筋肉質で、立ち上がった瞬間はバネのようで、往年の天才アスリートをほうふつさせた。そして、彼女はあの五輪をこう振り返った。
「初めての国際レースを走るには若すぎました。私は走るべきではなかったのです。政治的にも注目されることもまったく想像できませんでした」
アパルトヘイトや冷戦という国際政治に翻弄されたうえ、トラックまで悲劇の舞台になってしまったバッドさんとデッカーさん。その後、二人は長い歳月を経て静かに対面し、お互いを理解し合い、打ち解けたという。(城島徹)
アフリカ土産物語は今回でいったん、休止します。これまで国別にその土地と人々を描き、お伝えしてきましたが、次回はテーマごとにアフリカの違った風景を届けるつもりです。