アフリカ土産物語(39)ルワンダとコンゴ民主共和国 マウンテンゴリラとの出会い

 1994年に大虐殺(ジェノサイド)が起きたルワンダと、20年以上も内戦が続くコンゴ民主共和国にまたがる山中はマウンテンゴリラの世界最大の生息地で知られる。合わせて数百万人が犠牲になったとされる両国を訪ねた際、復興の起爆剤となるエコツーリズムの主役として期待されるマウンテンゴリラの見学ツアーに参加した。

エコツーリズムの主役として期待

 2003年夏、ルワンダの火山国立公園。カリシンピ山(標高4507メートル)のふもとから登り続けて2時間。緑の樹林の陰に黒い毛のゴリラの群れが現れた。フランシスという青年ガイドの「そっとしていれば平気」という通り、数メートル先で十数頭が寝転んだり、座ったりしていた。体はいかついが、おとなしく、欧米のツアー客と驚いて顔を見合わせた。

数メートルまで接近しても大丈夫

 この場所で調査を続けた米動物学者のダイアン・フォッシーさんの生涯が映画「愛は霧のかなたに」(邦題)になったこともあり、年間6000人以上の観光客が訪れたが、大虐殺後には年間ゼロに落ち込んだ。武装レンジャーに率いられるトレッキングのため参加者は1日に多くて30人ほどだが、治安が改善された当時、年間5000人強と盛り返していた。

 そういえば、京都大元総長の山極寿一さんも1980年から同じビルンガ火山群の熱帯雨林の山中に入り、フォッシーさんが設立した「カリソケ研究所」で調査活動に没頭する日々を過ごしている。

ルワンダのビザにも登場するうマウンテンゴリラ

「仲間」を感じる

 ある日、藪の中から巨体のオスが山極さんの目の前に現れた。彼は「私をじっと見るので『グフーム』とあいさつをしたら、魔法が解かれたようにメスも子どもたちも動き出した」と語っていたが、私も山中のマウンテンゴリラを本当に「仲間」のように感じたものだ。

 下山して車で2時間ほど走り、コンゴ側に国境を越え、反政府勢力の拠点だったゴマの街に入った。火山の爆発で流れ込んだ溶岩が固まって平地を埋め尽くしていた。それでも内戦がいったん収束し、暫定政権が発足間もない時期で、市民の顔つきには明るさが見えた。

固まった溶岩流に埋まるゴマで復興作業に携わる住民

  アイザックという野生動物担当調整官に会った。彼は詰め所の壁に貼られたポスターのマウンテンゴリラを指さし、「紛争から復興へ向かう私たちにとって、エコツーリズムのシンボルだ。その収入をゴリラ保護と公園職員の人件費に回したい」と言った。

 虐殺や内戦の陰で密猟が横行するなか、マウンテンゴリラは個体数が一時600余りと絶滅まで危惧されていたが、徐々に増えて現在は1000を超える。旧紛争地では貧困への同情を求めるだけでなく、「観光客誘致」を望む声も高まっている。

マウンテンゴリラのポスターとアイザック調整官

 10年前にANAの機内誌で「ルワンダのマウンテンゴリラに出会う旅」というパック旅行の特集を見た。あの大虐殺で家族を惨殺され、レイプされた当事者を取材していただけに、それに一言も触れていない内容に複雑な思いを抱いたが、その一方で、現地の人たちが期待するエコツーリズムの浸透を実感し、「これでいいのかもしれない」と考えた。

 開発や戦闘に駆られる人間社会をたしなめるかのように、マウンテンゴリラは今もアフリカのジャングルで私たちとの共存を歓迎してくれているに違いない。(城島徹)

ルワンダ土産の木彫り像

関連記事一覧