アフリカ土産物語40 ナミビア 砂漠の国に残されたドイツの影 近現代史のヒントの宝庫

ドイツの雰囲気が感じられた街角

国名は「なにもない」

 1990年、アフリカで最後に植民地からの独立を果たしたナミビアの国名は先住民の言葉で「なにもない」という意味のナミブ砂漠に由来する。ところが実際には近代史を映す景観や現代史を語る闘士の言葉に触れられる不思議な国だった。

 ナミビアは、ドイツがビスマルク時代に進出し、1884年から1915年まで「南西アフリカ」として領有した。その名残なのだろう。2002年に訪ねると、鉄血宰相の名を冠した通りや洋風建築があり、現地の敏腕記者に乗せてもらったフォルクスワーゲンからもドイツの影響を色濃く感じたものだ。

建物にもドイツの雰囲気が漂う街角

「ブッシュマン」の国でも

 第一次世界大戦中にイギリスに占領され、国際連盟の委任統治領の時から南アフリカの長期植民地支配が続くが、そうした歴史より、内陸のカラハリ砂漠で狩猟採集する「ブッシュマン」の国として記憶され、その主人公のニカウさんを思い浮かべる人もいるだろう。

 大西洋に面した海岸線には1300キロもナミブ砂漠が続く。標高約1650メートルの内陸に軍事基地として開発された首都ウィントフークのホテルでは洗面所に「節水」を求める張り紙があり、水の確保に腐心する国情がうかがえた。

砂漠の丘をオフロード用の四輪バイクが走っていた

 大西洋岸の都市スワコプムント郊外の砂漠で中国が建設した宇宙管制センターを見たあと、海岸線を南下して港町ウォルビスベイに向かった。ナミブ砂漠と大西洋にはさまれた一本道で、左側の砂丘ではオフロード用の四輪バイクが砂塵を巻き上げ、右側の大海原は白波が打ち寄せる、なんともシュールな景観が出現したのだった。

ヘレロが敬う牛の角をモチーフとした帽子と洋風スカートの人形

20世紀最初のジェノサイドも

 先住民の子孫とおぼしき女性が路上で売っていた洋装の人形を土産に持ち帰った。あとで知ったが、オホロコバと呼ばれるビクトリア朝様式の幅広のスカート姿で、ドイツ人宣教師の妻たちが異文化である牧畜民のヘレロの女性に着させたものだったという。

 ドイツ兵は占領時代に現地人の土地を奪い、蜂起したヘレロ、ナマの両民族を徹底弾圧して約8万人のヘレロの8割、約2万人のナマの半数を殺したとされる。ホロコーストに先立つ20世紀最初の「ジェノサイド(集団虐殺)」だが、ドイツ政府がそれを正式に認め、「ナミビアと犠牲者に許しを請う」と謝罪したのは2021年と最近のことである。

故ノラ・シミングチェイスさんの名刺(一部加工)

「なにもない」国で、多くの出会いが

 多くの出会いもあった。特に印象的だったのは独立後に初代駐独大使を務めた国会議員のノラ・シミングチェイスさん(1940―2018)で、ヘレロとドイツにもルーツを持つ、自由の闘士として国葬が営まれた人物だ。さらにその姉のオッティリー・エイブラハムズさん(1937―2018)と夫のケネス・エイブラハムズさん(1936―2017)という著名な教育者でもある独立闘争の同志夫妻の一家と知己を得たことも幸運だった。

中国の進出が各地でうかがえた

 そのほか、クジラの骨の造形作品ばかり作っている女性芸術家、「アンゴラの地雷撤去で大金が入る」と打ち明けた非政府組織(NGO)幹部、中国人実業家、北朝鮮の建設労働者、国連機関で環境プロジェクトに取り組む日本人女性もいた。

近現代史のヒントの宝庫に

 「なにもない」砂漠を抱えたナミビアは、近現代史のヒントの宝庫であり、太陽光や風力発電による再生可能エネルギーの産業創出でも将来きっと注目されるだろう。(城島徹)

クジラの骨の造形と制作した芸術家

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