アフリカ土産物語(27)「奴隷の家」の帰らざる扉

 セネガルの首都ダカールの3キロ沖合に浮かぶゴレ島に渡ったのは、人種差別撤廃会議(国連主催)で「奴隷貿易」が歴史上はじめて「人道に対する罪」と確認されて間もない2001年秋だった。島の象徴的な遺跡「奴隷の家」ではベテラン学芸員のジョセフ·ヌジャイさんから説明を受けた。先祖の苦難の歴史を語る真剣で慈愛に満ちた眼差しが忘れられない。

ダカール沖に浮かぶゴレ島

ゴレ島は世界文化遺産に

 長さ900㍍、幅300mのゴレ島はかつての奴隷貿易の基地で、15世紀以来、ポルトガルや英仏などが支配権を争ったことを示す砲台や要塞が残り、1978年にユネスコの世界文化遺産に登録された。「奴隷の家」は1776年に建てられた南国風のエキゾチックな建築様式で、2階は白人商人の旧居、階下は100人以上の奴隷たちを収容した牢屋だ。

 奴隷たちは脱出を試みたのだろう。壁に刻まれた爪痕を見て、「絶望」の叫びが時空を超えて聞こえるような気がした。牢屋前の廊下奥に見えた長方形の白い光は「帰らざる扉(Door of No Return)」と呼ばれる扉だった。船が着くと、ここから奴隷たちは見知らぬ大陸へと積み出され、二度と戻ることはなかった。

「奴隷の家」の壁には奴隷たちの爪痕が刻まれている

 ジョセフさんの話では、兵役で派遣されたアルジェリアやインドシナから帰還したあと、アフリカ大陸が独立の機運に燃えていた1962年、詩人としても知られたセネガル初代大統領のサンゴールから「君に奴隷貿易の解説をしてほしい」と頼まれたという。

語り部として苦難を説いたジョセフさん

 それ以来、何十万人もの欧米からの旅行者に苦難の歴史を説き続け、南アフリカのマンデラやアメリカのクリントンら元首級を含む多くの要人も案内した。1992年に訪れたローマ法王ヨハネ·パウロ2世の来訪は特に印象深かったようで、「キリスト教の伝道師が奴隷貿易に関与した罪に許しを乞うたのだ」と感慨深げに振り返った。

「帰らざる扉」から奴隷が戻ることはなかった

 青い大海原を背景にピンクのブーゲンビリアが咲き誇る路地を歩いていると、まるでリゾート地にいるような錯覚に陥るが、欧米からの旅行者に笑顔はなかった。広島の原爆ドームと同様で、人類の負の遺産の地であれば当然のことだろう。

 南アフリカでその年に開かれた人種差別撤廃会議にも参加したジョセフさんは「何百万人という奴隷が欧米の発展に使われた。彼らが流した血の代償は金じゃない」と言いつつ、当時79歳という年齢のせいか「そろそろ隠居したいよ」と漏らした。

教科書に語り継がれる奴隷貿易 

2006年にセネガル初の「人間国宝」の6人の一人に選ばれたジョセフさんは、地元出身の歌手ユッスー·ンドゥールがゴレ島から出発して黒人音楽のルーツをたどるドキュメンタリー映画「ユッスー·ンドゥール 魂の帰郷」(2007年)でも、大スターに諭すように語りかける姿が見られる。

「ユッスー·ンドゥール 魂の帰郷」はこちらから

https://www.youtube.com/watch?v=hWbEpj4MeeE&t=99s

 

「奴隷の家」で解説するジョセフ・ヌジャイさん

 2009年2月6日、ジョセフさんは86歳で亡くなった。奴隷制の記憶を子どもたちに伝えようと生前書き遺した著書を、第3代大統領のワッドは学校の教材にして後世に伝えることを提案した。ゴレ島を世界に知らせたセネガルの偉人としてジョセフさんの名は永遠に記憶されることだろう。(城島徹)

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