手話講座3年間の仮決算①自身の硬い殻に気付き、会社と異なる社会を知る
手話講座に通い、3年間が過ぎました。「手話のコミュニケーションとはどんなものなのだろう」。こんな素朴な思いで気軽に講座を応募したはずでしたが、講座は毎回楽しく、毎週1回の講座が待ち遠しいほどに。この3年間、「目から鱗」「コロンブスの卵」の表現がぴったりの驚きが続き、自分自身の視点がいかに偏り、欠落していたものが多かったかを教えられました。まだまだ手話の勉強は続けるつもりですが、ここで自分自身の反省と学びを確認するためにもこの3年間を仮決算してみます。
間違えても笑える楽しさ
手話講座は自治体が開催し、参加費は無料。テキスト代は支払いますが、講師料などはありません。努力することは毎回、市の福祉センターに通うこと。先ほども書きましたが、楽しかったので何の苦痛もありませんでした。3年間のうち初級を2年間、中級を1年間それぞれ受講しました。初級が2年間となった理由はコロナ禍。予定の半分程度が休講となってしまい、初級と認定する出席数に届かなかったためです。初級受講者は全員が”留年”でしたが、結果としては私にとっては幸いでした。手話の扉を開いてみたものの、目の前には外国語をゼロから学ぶ難問が待ち構えていました。その難しさにへこたれずに続けられたのは、生徒みなさんと一緒に「間違える楽しさ」を覚えたからです。
最初の授業は20人近い受講者でした。初回、「コロナ禍なのに、こんなに多い人数が集まるならやめます」と憤ってやめる人も現れます。「講座だから当たり前じゃないの」と呆れたものの、だんだん減り続けて10人ちょっとに。それが結果的によかった。コロナ禍と臨時休講にめげずに通うだけあって、初級クラス全員の結束力はなかなかでした。
講座の空気は小学生の頃と同じ
生徒の年齢層は最年長者は80歳を超え、若い人は30〜40歳代。女性がほとんどで、男性は2人だけ。みなさん、あっけらかんとした人ばかりでしたので、お互いに神経を使うことがなく、意外にも小学校の頃と同じ空気を感じました。
手話を勉強する動機はさまざま。最初、生徒全員が自己紹介も兼ねて手話を始める思いを話します。初級で授業が始まって間もない頃ですから、もちろん口話です。「聴覚障害の孫と話したい」「自分自身の聴覚力の低下で将来に向けて準備したい」「ボランティアとしての活動範囲を広げたい」「障害者スポーツの裾野を広げたい」。自分自身は、新聞やテレビで情報を伝える仕事をしていたので、「手話のコミュニケーションを知りたかった」。呑気な動機と思いましたが、志の低さに恥ずかしかったです。
「俺って、世間とずれている」。手話講座に通い始め、すぐに予想もしなかった違和感を覚えます。手話の難しさに悩む以前に、なんとも複雑な感情が毎回、湧き上がります。新聞記者として40年間、政治・経済を中心に国内外で多くの人に会い、大きなニュースを取材。新聞や雑誌、テレビを通じて記事を書き、番組制作に携わりました。「世間は知っているぞ」どころか、世論形成の一助に貢献したという自負がありました。
世間知らずの自分に愕然
ところが、生徒の皆さんが手話講座で語る日頃の生活や人生観の多くは初めて耳にすることばかり。未明に起きてお弁当屋さんで調理や詰め合わせした後に講座に通う方がいれば、幼稚園の先生の傍ら聴覚障害の子のために手話を学ぶ方。家族の介護、障害者の生活支援など・・・。新聞紙面、テレビ番組を通して知っているつもりでも、自分自身の価値観や感情と照らし合わせても「おまえは何も知っちゃいないんだ」と諭されます。一丁前に世間を知っていると過信していた自分に気づき、新聞やテレビが伝える世界が「世界のすべて」と信じ、勘違いしているにもかかわらず、そこから抜け出せないでいる孤立した自身の姿が立っていました。
社会と思っていた世界は、実は「会社」の世界。社会と会社と同じ漢字を使っていますが、見た目通り180度違う社会でした。手話を知るよりも40年間、社会の一部しかチョロチョロ歩き回っただけであることを痛感します。
聴覚障害の先生が語る体験は、もっと衝撃でした。
=次回に続きます。