京都・ウトロ地区を初めて訪れました。
近鉄京都線伊勢田駅を降り、スマホのナビを頼りに歩き始めました。うねった道に従って進むと、二叉路の交差点に「ウトロ平和記念館」の案内図が貼られています。指示通り、左へ曲がると「この先道路狭小のため 車輌通り抜けはできません」の看板。一瞬、ドキッ。自分の胸の内を覗かれたような気がしたのです。
「ウトロ」。この地名を新聞記事で知った時、京都府宇治市にも同じ地名があるんだとちょっと驚いたのを覚えています。もう20年近い前のことです。北海道で育っただけに、ウトロといえばすぐに思い浮かぶのは北海道・知床の玄関口、斜里町ウトロです。
1980年代でも上下水道は未整備
宇治市のウトロ地区は第二次地戦中、京都飛行場の整備に従事した在日コリアンの家族らが戦後も住み、暮らしてきました。当時の記事は上下水道がまだ完全に整備されておらず、劣悪な住環境の状況を伝えていました。上水道の整備が始まったのが1988年からという事実だけでも信じられません。高校生の頃、下北半島から入学した同級生の実家がある村はまだランプで過ごしていると教えてもらい、驚いたことがありますが、1970年代初めの話です。
それが2000年代になっても上下水道が完備せず、しかも「京都府、宇治市という大都会でなぜ?」。素朴に理解できませんでした。その後も新聞やテレビなどで「ウトロ」の名前を目にすると記事を読み、番組を視聴しましたが、在日コリアンへの差別、土地退去、放火事件などいずれもウトロ地区の厳しい生活、人権侵害などが取り上げられます。
「ウトロに生きる ウトロで出会う」
だからなのでしょうか。「ウトロに生きる ウトロで出会う」。狭い路地を過ぎて、一年前に完成したばかりのウトロ平和祈念館の壁に英語と日本語で書かれたメッセージが目にした時、意外感を覚えました。このメッセージがなぜ最初に登場するのか。劣悪な環境と差別の中でも、ウトロに住む誇りが最も大事なもの、という意味が込められているのでしょう。当初、ウトロ地区になぜ「平和祈念館」の名称が付くのか不明でしたが、込められた思いがようやく分かった気がしたのです。
広島の原爆ドームと重なりました。
毎日、原爆ドームを眺めて生活したことがあります。勤務していた新聞社の広島支局長として赴任し、住んだ部屋が隣接していたため、朝も夜も原爆ドームにあいさつ。一年も過ぎると勝手に親近感を覚えるせいか、原爆ドームから時々諭されていると感じる時があります。8月6日は世界に向かって平和と核のない世界が訴える大イベントが開催され、新聞・テレビは大きく報道しますが、被爆者のみなさんはじめ広島市民、そして原爆ドームが国内外に発するメッセージは毎日同じ。広島に住んでいる人間にとって大事なものは「変わることはないし、変わるわけがない」。
ウトロ平和祈念館も同じ。その歴史を伝えるだけでなく過去も今も「ウトロに住む誇り」を最も知って欲しい。ウトロ地区を初めて訪れる時、どうしても新聞などで伝えられる差別と劣悪な住環境の印象を持ってしまいますが、そこだけに目を奪われないでほしい、と。
平和祈念館はグループの見学者でいっぱい
平和祈念館はとても開放的でした。屋外には朝鮮人労働者の宿舎となった飯場や古井戸が展示され、当時の生活環境が再現。駐車場はバスが何台も並び、グループで訪れている人が相次いでいました。一階フロアは、グループの人たちで賑わっており、記念写真を撮ったり、お茶やコーヒーを飲みながら懇談しています。2階、3階の展示室でも多くの人が並んでいました。入館料500円を払おうと思いましたが、スタッフみんなはとても忙しそう。後で時間を見て支払うことにして、展示室に向かいました。(最後に入館料は支払っています)
あるグループにガイド役のスタッフがいたので勝手に一緒に付いて回り、ウトロ地区の歴史、差別、生活などを聞き、質問もしちゃいました。屋上も含めて館内を一周した後、受付に戻って改めてスタッフの方たちと雑談していると、資料と共に手書きのウトロ地区の地図を渡され、「放火した家屋も含めてぐるっと回って見て行ってくださいね。フロアでコーヒーなども飲めますし、好きに過ごしてください」と勧めてくれます。
手書きの地図を渡され、「歩き回って」
ウトロ地区をうろうろしても良いの?と不安げ気持ちを察してか、「このあたりが放火された場所ですから、ぜひ行ってください」と背中を押してくれます。初めて訪問したこともあって、ちょっと緊張気味に歩き回り、ガイドさんらに質問でも肩に力が入っていたのですが、ふっと力が抜けます。
急に散歩気分で市営住宅はじめウトロ地区内を歩き回ります。外国人に英語で説明するグループが偶然、回っていたので、ここでも一緒に話を聞きます。空き家や廃墟同然の家並みが続きます。「立ち退き問題があるので、ウトロの住民はお金をかけて自宅を修繕するのを諦めていた」「最後の在日一世が亡くなり、ここも空き家に」。地区は建て替えや更地に改修する工事が始まったているせいか、トイレなど廃棄物が残されている建屋もあります。2年前に放火された家屋は骨組みや炭化した焼け跡が残り、壁には表現するのも恥ずかしいヘイトの落書きも。散歩気分はサッと消え、ウトロ地区の周りを何度も回りながら、この場所で繰り返された歴史の重みを知る難しさも痛感するしかありませんでした。
ウトロ地区は歩いて一回りしても、そんなに時間はかかりません。伊勢田駅から歩いて訪れると、「この先道路狭小のため 車輌通り抜けできません」の看板が待っていますが、狭さを気にせず通り抜ければ、ウトロに出会えます。
ウトロ平和祈念館のホームページはこちらから https://www.utoro.jp/