「ぽん」の宇宙 It’s a Man’s Man’s Man’s world あの空間と音楽があったから ジョー山中の叫びが・・・
喫茶「ぽん」の文字を見て、胸にたまった固い空気がフッと口から抜けます。いつものようにそこにお店があって安心(心の声)
建屋は一見壊れかけている?と思うはず。店内に入る木戸はもっと壊れそう。そろそろ壊れるんだろうと思いながら、いつまでも壊れない不思議な木戸を開けます。(注;すべて当時の話です)
「ようやく居場所に着いた」
店内は昼間なのに窓が少ないのでちょっと薄暗い。目が慣れるの時間がかかりますが、マスターの表情がポカッと浮かんだように映ります。笑っているのか笑っていないのか。いつも機嫌がわからない。数え切れないほど会っているのに表情は読めません。今風にいえばスキンヘッドに近いヘアスタイル。髭はヤギのように長い。頭に毛がないのにどうして髭が長いのだ。そんな疑問はとうの昔に消えてしまい、「いらっしゃい」とマスターの声を聞くと、よどんでいた気持ちはスッと軽くなっていきます。
今はもう午後2時過ぎかな。平日です。本来なら高校生として校舎で授業を受けていなければいけない時間帯です。ですが高校3年に入ってからは、ほぼ週2、3回はお昼過ぎには高校の校舎を離れて「ぽん」へ。校門の前で先生と顔を合わすことがあるのですが、その時は目で挨拶するだけです。ほんとたまにですが1日最後の科目まで授業を受けた日でも、かならずといって良いほど「ぽん」へ向かいます。
途中、パチンコ店に行ってパチンコか雀球で小遣いを稼ぐ時も。雀球って知っていますか?麻雀のルールを利用したパチンコもどきです。所定の場所に入れて麻雀の役を完成すれば、コインをもらえます。私はとても得意でした。必ず勝つ自信がありました。
一度、通い慣れたパチンコ店から挑戦されたことがありました。店ではいつも特定の台を使っているのですが、釘師が台のくぎをめちゃくちゃにばらして思った通りにパチンコ玉を弾き飛ばせないようにしたことがあったのです。台のガラス面越しに釘の方向を見て「挑戦してきたのか」とすぐにわかりました。「高校生相手になんということを!受けて立ってやろう」。身の程をわきまえずにとはこのことです。釘師は「おまえは高校で勉強してろ」と諭していたのかもしれません。
そんな深慮など気づくはずもありません。見事、パチンコ台の規定コインを出し切り、ようようとぽんへ向かいました。ホント、馬鹿な高校生。こんなことにエネルギー使うなら英語の単語を覚えろよ!です。
「ぽん」ではお店に入ってまっすぐ奥へ進み、空いていたらカウンターの右端の席に座ります。すぐ横にお店のトイレがあるので消毒液の香りがする時がありますが、長いカウンターを一望でき、向かい側にはコーヒーカップ、グラス、ウイスキーなどのボトル、趣味で集めているのかマッチ箱がきれいに並べられている風景が気に入っていました。マスターやママがカウンターと食器棚の狭い細長い空間をてきぱきとお客さんの注文をこなす姿を見るのが好きでした。今でも居酒屋に行くと、カウンター席の端に座り、料理を作っている手捌きを酒のサカナに飲みます。半世紀過ぎても何も変わりません。
コーヒー1杯50円、これで夜10時まで
コーヒーは一杯50円。当時でも安い価格です。カレーライス、ハムピラフ、スープライスが定番ランチで確か450円か500円。コーヒか紅茶付きです。雀球に勝って金銭的に余裕がある場合はランチ、お金がない時はコーヒーで夜の8時ごろまで漫画を読んだり、後から来る友人たちと話したりと居座り続けるのが日課でした。時々はコークハイを飲んだかな?椅子は座る面が凸凹のものもあり、座り心地はよくありません。でも、ずぅーと居られるのです。
だから帰りは8時過ぎか9時過ぎか10時過ぎかな。一度、帰りのバス停で女性から「今、何時ですか?」と聞かれたことがあります。よく見るとその女性、腕時計しているんです。私は「時計を持っていません」と答えました。なぜなんだろうと後日考えたら、友人が「ナンパされたんだよ」と教えてくれました。大人の世界は難しいですが、夜になると尚更です。
こんな自堕落な毎日を過ごしていてもマスターは何も言いません。時々、冗談で「この店にいると勉強になるだろう。ぽん大だよ」と日本大学の略称に引っ掛けて笑い飛ばしてくれるぐらい。帰り際に「頑張って」と声をかけてくれます。この「頑張って」が、思春期の何に悩んでいるのかすらわからない高校生には効きました。「明日もまた来ようって」となるのです。
姉貴の影響で小学生からビートルズに目覚めた私でしたが、時間を忘れるほど聞き惚れたのが店内に流れる音楽です。ソウルミュージックというかブルースというかブラックミュージックというのか。スキンヘッドに山羊髭のマスターの容貌にぴったりの音楽ばかりがBGMとして奏でています。
井上陽水も歌っていました。「人生が2度あれば・・・」と泣きながら歌う陽水に共鳴して良いのかどうか。高校生でしたから「医学部受験に失敗したから歌手になれたんだろ、良いよな」と妙に冷めた嫉妬を感じたり。それこそしょうがないことを考え、友人と話していたものです。この店でジャズ、アフロミュージックなどの魅力に夢中になったおかげで、当時から日本のアイドル歌手には無関心な高校生活を過ごしてしまい、今でもアイドルの話になるとほとんどついていけません。心に響いたのは中森明菜ぐらい。彼女は日本のアレサ・フランクリンになれかもしれないと思ったけれど・・・。もったいない。
ジェイムズ・ブラウンとフラワー・トラベリン・バンドが店内に響き渡り、刺さる
耳に焼き付いているのが2曲です。ジェイムズ・ブラウンの「It’s a Man’s Man’s Man’s world」とフラワー・トラベリン・バンドの「Make up 」。夕方、お客さんが空いた時間帯になると、マスターがおもむろにレコードに針をおろします。ジェイムズ・ブラウンが魂を歌い始めます。「This is a man’s world」と店内の空気を破ります。「But it would’be nothing nothing」すぐに心が掴まれてしまいます。
英語のヒアリング能力は低かったので、聞き取れるのは「This is man’s world」と「nothing」だけ。昼間でも薄暗い店内は完全にブラックミュージックの世界に染まり、気付いたらジェイムズ・ブラウンが「ゲラッパ」と歌い始め、「like a sex machine」と続けます。何を歌っているのかさっぱりわかりませんが、ガンガン刺さってきます。
午後8時過ぎぐらいになると、店内はカウンターの食器棚のライトだけの明るさになり、カウンターから後ろはほぼ闇。天井が高いので、天窓から星空が見えるような気がします。そして隣でジェイムズ・ブラウンが汗を飛ばして歌っているのが見えます。
マスターはかなり好きだったんじゃないかな。でも、ジェイムズ・ブラウンはかなり個性的だから、お店のお客さんには好き嫌いが激しいと考えてか、店内の状況を見ながら選んでいたようです。
時々、かけてくれたのがフラワー・トラベリン・バンド。あのジョー山中の高音ヴォイスにもうエクスタシーです。「Make up」の始まり、キーボードのエレクトリックなサウンドから重厚なベースの繰り返し、ガツンと入ってくるジョー山中のボーカル。格好良い〜〜!!ジェイムズ・ブラウンとジェー山中が響く官能的な空間をその後、体験したことがありません。10代後半の自分にとって、好きな本も教えてくれない宇宙があることを感じました。
つまらない高校をやめて、大倹で大学に行けないかなと考えたことは何度もあります。実際、高校3年生のころは、映画館とパチンコ店とぽんに入り浸っていたので、出席日数はかなり少なかったはず。出席してもちゃんと授業を受けていませんでしたし。同級生もそう思っていたのじゃないですか。卒業アルバムには私が授業中に寝ている写真が掲載され、「留年」と書かれていましたから。
全然気にしていません。私には「ぽん」で過ごした時間がありました。高校という居心地の悪い空間があっても、なんか知らないけれど好きな時間を費やすことができる場所ってあるんだということがわかりましたから。頭がパンパンになってわけわからなくなっても、「ぽん」の宇宙に入ってしまえば、自分の浮遊感を確認できたのですから。これでもう十分です。
社会人になって「ぽん」に顔を出したら、意外なことをマスターに言われました。当時の店の常連にはその後にテレビや音楽の世界で活躍している人がいるのですが、「あんたは彼らと違ってちゃんと考えていたよ。単なる遊びで騒いでいなかった」というのです。
「そんなわけないよ!」絶句です。あの時の俺は好きな友人とお喋りをし、好きなレコードを持ち込んでかけてもらい「Yesはうちの店に合わないなあ」とマスターから断れたり。音楽を聞いてコーヒーを飲んで。高校の学園祭のために「ぽん」を模して教室を大改装し、そのためのコーヒーの淹れ方を教えてもらったり。やりたいことをやっただけ。将来は何かになろうなって希望も見えていない時でした。
マスターは親に迷惑をかけるなとか説教を一言も発しませんでした。でも、あの沈黙と帰り際の「頑張って」が自分にとって一番の救いでした。当時求めていた優しさだったと知ったのは30年以上も過ぎてからでした。情けない。
4年ぐらい前に久しぶりに顔を出したら、マスターはカウンターの向こう側に写真になって迎えてくれました。「やっぱりカレーライスにしようかな」とママに話しかけたら、「あんたはいつもせわしないんだから」としこたま怒られてしいました。お店を出た後、マスターが眠るお墓を訪ね、お花とお茶を供えながら「ぽんに居場所があったから、なんとか今まで好きに生きてこれました」と感謝しました。
それにしても、こんな息子を許してくれた両親に感謝しかないです。コロナ禍も収束してきたので、近くお墓参りに行きます。私の「man’s world」であり「make up」です。